1「ゆっくりと苦しみをもって」
サティのジムノペディから祭りが終わった、人々の熱狂と喧噪が過ぎ去った季節を追憶したのは、ラインベルト・デ・レーウのレコードに録音されたノイズを聴いてからだ。このレコードは、ピアノのペダルらしきタイミングにザーザーーンと静かにざわめくノイズが入る。曲に引きずられるようにひっそりとノイズが後を追う。これを聴いているうちに持ったのが、数日間に渡る古代ギリシャの祭典ジムノペディ(ギムノパイディア)を讃える讃歌のようなものでなく、終わったのちに追憶するイメージだった。
ジムノペディは鍛え抜かれた肉体を持つスパルタ人の青年が、アポロンらの神々を讃え裸身で踊る祭典(儀式)だと高橋アキさんから教えて頂いた。サティはそれが描かれた古代の壺からイメージし、この曲をかいたとも言われると。
輝く太陽、熱く灼けた大地、掛け合う声と合唱、踊り続ける精悍な肉体から飛び散る汗。私にはそれがイメージできない。むしろそれは、人づきあいを好まず、いつもの黒い外套、いつもの黒い蝙蝠傘、いつもの黒い山高帽でいつもの道を、いつものように、くる日も、くる日もひとり歩くサティの姿に合致する。
ただこの度は違った。ピアノに続くノイズがゆっくりと静かに呼吸している。
波が砂をゆっくりさらい引きずるように。うちあげては引く波に、砂はさらわれ引きずられる。よせては引き、よせては引く。吸ってはき、はいて吸う。静かに長く。くり返し、くり返し。ゆっくりと。
踊り手も観客も誰ひとりも残っていない砂浜だった。
祭りは終わった。
2「ゆっくりと悲しみをこめて」
80年代、終わりを私に告げたのは、浜辺にビーチシート代わりに広げた暗幕をタボちゃんと二人たたんだ時だろう。彼はケラリーノ・サンドロヴィッチ率いるインディーズバンド「有頂天」のメンバーで、私はマネージャーをしていた。声を掛けられた成り行きでマネージャーを引き受け、メイク、衣装、スタジオの予約、メンバーのバイト先への連絡、制作サイドにはメンバー以外私しかいなかったから雑務の一切はマネージャーの仕事になった。それでもメンバーだけでなく助けてくれる仲間はいつもいた。葉子ちゃんだったり、みのすけだったり、犬子だったり、大槻君も内田君も三柴君も。ライブにもスタジオにも、なぜかいつもだれかがコロコロいた。私の部屋にも昼夜を問わず突然誰かがやってきて話し込んで去っていく。うんと年上の人も、誰もがみんな「お姉ちゃん」と私の姉を呼んでいた。
そんな毎日の数年後メジャーデビューが決まり、姉が「お姉ちゃん」と呼ばれる頻度も少なくなって、私の仕事が終わった。タボちゃんも有頂天を離れることにした。
その頃だったろうと思う。彼が音の手伝いをしていた松岡錠司監督の海のロケに誘ってくれたのは。浜辺に敷いた暗幕に座り、撮影の様子を映画のように眺めていた。
ジムノペディのノイズは、波がさらう砂の音に似ていた。
3「ゆっくりと厳粛に」
「限られた音をのみ純粋なものとして構築してきたこれまでの音楽作品。しかしケージはデュシャンのレディ・メイドの思想と同じように、環境のなかでサウンドするすべての音を”音楽”の問題として提出した。」
これは”家具の音楽”を空気振動以外の目的はないというサティの考え方と直結していると秋山邦晴が「エリック・サティ覚え書き」で述べている一節である。彼は高橋悠治が60年代「異質のエネルギーが集中した場所」と称した「草月アートセンター」にいたひとりだ。
音楽の問題かどうかは分からないけれど、録音ノイズが私の記憶に直結していたことは確かだろう。
そして私はあの頃と変わらず同じように仕事をしている。
今はモヨコからケンヂに変えた大槻君作詞のももいろクローバーZに背中を押されて。
働こう
働こう
生きていると知るだろう
ただじっと手を見ていたんじゃ
一握の砂さえこぼれるから
大槻ケンヂ作詞 「労働讃歌」より
ノイズから砂をさらう音が聴こえる。