ファンタスマゴリ「幻燈装置」

投稿日:2013年12月18日
cameraworks by Takewaki     

 

夏の暑さの名残は10月まで続いた。10月も半ばを過ぎて甚大な被害をもたらした台風が何度か現れ11月になった。とたん北風が吹き冷え込んだ11月のまもなく、天井高の小さな音楽ホール、左隣に夫、右隣に父が座っていた、と、思った。
栃尾克樹サクスフォン、ピアノ高橋悠治「影の庭」の演奏の時の話だ。父の葬儀から帰京した翌週の出来事だった。

 

出されない音を埋めるのは、聴く者の記憶の音。聴こえる音と聞こえない音を繋ぐ高橋悠治の演奏。そしていつからか高橋悠治は揺らぎながら呼吸のように演奏するとも感じていた。

 

「影の庭」が始まると、緊張感で小さなホールは埋め尽くされた。サクスフォンの音が耳を通過した後、音の振動の余韻を気配として感じる。栃尾克樹と高橋悠治がその気配に反応しながら次の音を振動させる。誰もが微かな息づかいでさえ逃さなかった。神経のすべてを集中させるような高まりが途切れたその時、私のなかで父のささやきが響いた。
演奏の他は息もひそめる程の沈黙のホール、いたる所で記憶の海が揺りおこされ現れる、密かなささやきに響いている。音のないざわめき。
遥か遠いものが、今ここに現れている。

 

時間と空間が独特に縺れ合ってひとつになったものであって、

どんなにちかくにあってもはるかな、一回限りの現象である。

「複製技術の時代における芸術作品」 W・ベンヤミン

 

11月が終わる頃、演出あごうさとし、ドラマトゥルク仲正昌樹の「–複製技術の演劇– パサージュⅢ」に出掛けた。

 

ハンナ・アーレントの前夫のいとこにあたると言うユダヤ系ドイツ人のベンヤミンは、ナチス政権の第二次世界大戦下パリに亡命滞在していた。しかしナチスにパリが陥落し、アメリカに亡命する途中ビザが下りず、彼はたどり着いた小さな宿で生を終えた。フランスの抑留収容所に拘束されながらも脱出しアメリカに亡命できたアーレントに反し、国を越えようとした当日に持っているビザが無効となる法が施行され、出口のない状況へと追いつめられ自死するベンヤミン。二人の行く末を分けることになったのは、初めから定められた運命と呼べるものではなく、タイミングと以外に言いようのない、その時、そこにあった、ある種偶然の産物なのかもしれない。

 

「演劇は複製可能か」の問いかけの検証を目的に上演されるあごうさとしの「パサージュ」。パサージュⅢの演劇の舞台となるのは、ベンヤミンが最期を過ごした宿屋で生を終えるまでの30分である。
遠くギリシアの時代から脈々と切れ間なく続き、唯一無二のアウラを放つ美の系譜と、持続的に存在せず、切断されても複製技術の発展によって反復可能となった芸術作品の隔たりは、反復可能なものの対象を問うた時点で一瞬のうちに消える。時間も空間も異なる瞬間に再現できる芸術作品があるとすれば、それを意味するものは何だろうか。そのような問いかけにおいて、あごうさとしの演劇の複製可能性は、ひとつの回答を出している。
観客として出掛けた私は、舞台が始まると同時に演者となった。劇場のあちらこちらに配置されたスピーカーからベンヤミンの、または職人とのやり取りのなかで作成された手縫いのビスポーク靴の声が再現され、私にそして全ての観客=演者に語りかけられる。
その声に記憶がおこされる。

 

すましたトイプードルを連れた毛皮のマダムと、怯えた瞳の子供の手を引きずりスカートを何枚も重ね、着膨れした黒髪の女が行き交うパリの街角。骨董品や出所不明のまがい物、本物の原石とキッチュなガラス玉が陳列されたパリのパサージュ。L・ブニュエルの「欲望のあいまいな対象」のラストは、パサージュの突然の爆発で幕を引く。

 

ブニュエルが高く評価していたベルイマンの「ペルソナ」は、心の健康を損なった療養中の女優と看護婦の関係において、自分と他者との境界線が曖昧になり、立場が逆転してゆく過程を追う。別人格であったはずのものが、あたかもひとりの女であるかのような錯覚をおこさせる。一方ブニュエルの「欲望のあいまいな対象」は、ひとりの若い女性コンチータ役を、二人の女優によって演じられる。

 

ひとりの女に潜む二面性を演技以上に端的に、そして如実に表現しているのは、衣装である。同じ設定場面で、同じものをつけているはずのひとりの女の衣装は、演じる女優によってデザインも質も微妙に異なる、似て非なるものである。知性的で冷たい瞳を持つ貞淑なコンチータは、「着こなしのルール」を知る女性の振る舞いを見せる。一方で性的な魅力を肉体に溢れさせ、甘い汗の匂いを発散させるかのような熱情の女であるコンチータは、媚びた大きな瞳を見開いて訴える。知的で貞淑、情熱的で淫ら、相反する二面性も持つ若いコンチータに初老の紳士は翻弄される。

 

どちらがコンチータの本性か。翻弄され続けてもなお、求めて止まない彼の欲望の対象はどちらのコンチータなのか。

 

作品の冒頭の白いクッションに残された血痕、続く場面での突然の車の爆発に暗示的に呼応した結末のシークエンス。最終場面のパサージュのウインドウで、針子が繕う白いレースには血痕が残されている。
L・ブニュエル最期の作品の最後の場面に、賑わいと寂しさ、懐かしさが混在する雑多なパサージュを選んだのは、「神のお陰で、無神論者になった」という彼の言葉と無縁ではなかったかもしれない。

 

そのパサージュも、最後はテロ爆弾が炸裂し一面炎に包まれる。

 

 

 

菩提寺光世|2013.12.18

2013.12.18 投稿|