アウラの崩壊は、ある種の知覚のしるしである

投稿日:2014年02月19日

cameraworks by Takewaki

 

− アウラの崩壊は、ある種の知覚のしるしである。−
「複製技術の時代における芸術作品」 W・ベンヤミン

 

昨年の暮れ、数十年振りに復活する一回限りの有頂天ライブに米原康正、葉子夫妻と出掛けた。米原康正氏は有頂天のリーダーであったケラリーノ・サンドロヴィッチの劇団ナイロン100℃と仕事をしており、私はナゴムレコード、インディーズ時代の有頂天マネージャーだった。冷たい風がきつい夕刻の新宿ロフトは、かつて知った場所からは移転していたが、ライブ会場の熱気と地下の空気はあの頃と変わらなかった。圧倒的な違いは、集まった人の数で、そこにいた背が低い方に分類される約半数の人たちは前後左右にひしめく人の壁の会場で、直接ステージを見ることは出来ず、上方に設置されたモニターを見るのがやっとという賑わいだった。
後に記録として語られることになった観客動員数ゼロの目黒鹿鳴館ライブの時のマネージャー、それが私だった。

 

年が明け、「スペシャリスト」が渋谷ユーロスペースで上映された。これは、ナチス親衛隊中佐であったユダヤ人強制移送のスペシャリスト、アイヒマンの数百時間に及ぶ裁判実録フィルムを、アーレントの「イェルサレムのアイヒマン」に基づき編集した記録映画である。
岩波ホールで上映していた「ハンナ・アーレント」は、チケット購入に長蛇の列が連日の盛況だったという。私のすぐ後ろに並んでいた人も当日上映券は入手できず、出直しを余儀なくされていた。
ナチス政権下にアメリカに亡命したドイツ系ユダヤ人女性である政治思想家、アーレントが、アイヒマン裁判記録を発表したことに端を発し、世間、特にユダヤ人社会から痛烈な批判を浴びる経緯と同胞からのバッシングに屈することなく強くこの問題に向かい続けた彼女に映画は焦点を当てている。
なぜアーレントは強くいられたか、という質問に対し仲正昌樹氏は最近ラジオ番組のなかで、アーレント自身はユダヤ人で女性というマイノリティー(むしろ弱い立場)に位置する人であった、彼女は、人間とは元来もろく信用ならないものであるから、他の人と活動(アクション)しあうことによって人間性を保つことができる、そのように物事の見方、視点を複数化していくことが大事だと指摘していると回答していた。

 

映画「ハンナ・アーレント」で際立っていたのは、アイヒマン裁判の実録フィルム挿入部で、そこには活字の限界を超えた情報が映し出されていた。しかし、「ハンナ・アーレント」の盛況振りに反し、「スペシャリスト」の上映に集まった人は十数名だった。

 

あの膨大な数の強制移送を可能とした要因は、アイヒマンの目的にも結果にも無関心ないかにも官僚主義的でソフィスティケイトされているかのように見える勤勉さのみにあるのではなく、同胞のユダヤ人をリーダーに作成された住民の区分リストによるものだった。アーレントはその事実を内側から指摘し、痛烈な非難を受けた。「スペシャリスト」はその事実を映し出した記録映画だった。
その日私が知ったことは、悪の所為がいかに陳腐で凡庸だということも、アーレントのアクションにもさほど多くの人々は関心を持たないということだった。

 

昨今世間が注目した佐村河内守氏は、新垣隆氏という代作者の発覚により、全聾の天才作曲家という賞讃が転じ、大バッシングの対象となった。
数年前、高橋アキ氏によるモートン・フェルドマンやケージのレクチャーの際、私は彼女に、クラシック音楽において曲は作者側のものか、それとも奏者側にあるものかという問いをしようと思い、出来ずにいたことを思い出した。
その質問と今回の事態は異なるが、あらゆる点から関心をひいた。
作品の権利と作家性、弱者と強者の二項対立式、そしてベンヤミンのアウラと複製技術の関係、そのどの視点から眺めてみても、さらに目を凝らしたくなる。

 

普段から私はオーケストラ演奏にほとんど興味を持たないが、交響曲第1番《HIROSHIMA》の演奏光景は関心をひいた。作者も奏者も聴者もそこに居合わせた者全てが、3.11を経験した者であり、空にもくもくと立ちはだかり立ち籠めるような音の暗雲に、見えない先の漠然とした不安を重ねている。一回限りにその場所に立ち上がった音の暗雲を、私は複製技術の再生によって追体験している。
そこにバッシングに関わるいかなる問題も入る余地はないだろう。

 

先日、パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニの「塀の中のジュリアス・シーザー」が前述の渋谷ユーロスペースで上映された。ローマ郊外にある刑務所で、一般の観客に受刑者による劇が上演される。麻薬密売、マフィア、殺人などで服役する受刑者は、演劇の稽古を通し、しだいに自分の現実を劇中の役に投じていく。暗殺を企てる者、ささやきそそのかす声、大義のもとに暗殺を実行する者、処刑を覚悟する者。彼らの現実が、シーザーとなり、ブルータスとなってゆく。そして冷たく強固なコンクリート塀の刑務所が、いつしか古代ローマ帝国の議会場と化していく。囚人は俳優の、刑務所は古代ローマ帝国のアウラを放った。
迫真の演技に観客は上気し、劇は拍手喝采のなか終演する。
終演後、それぞれの受刑者は独房に戻され、独房の扉は閉ざされ、閉ざされた扉は施錠される。最終場面の最後の台詞。
「芸術を知ったときから、独房は監獄になった」
芸術もまた、複数性においてあるのだろう。

 

有頂天の復活ライブが終了したのは、夜更けだった。その打ち上げの席で、継続的に更新されない関係の私が、ひとっとびにあの時のあの場所の関係を再生させたとしても長居は不似合い、とこの領域を離れようとしたその時、高い身長の背を組んだ脚に被せるようにまあるくかがめ、人より小さくなって座っているかつては見慣れた佇まいの背中があった。深くニット帽を被った背中に「大槻くん?」と小さく声をかけると、誰にも届かないようなさらに小さな声で「大槻くんだよ」とささやき、おずおずと振り返り、私の名を小さく呼びかけた。
大槻ケンヂは、何も変わっていなかった。

 

ー 連歌的時間は、直線でなく、円でもない。
領域Aから共通部分ABをとおって領域Bにうつる、この運動の繰り返し。
時間はネットだ。 ー
1968.4. バッファロー 高橋悠治

2014.2.19 投稿|