笠井潔「〈戯れ〉という制度」から
隣合わせの独房にいるふたりの囚人が壁を叩いて合図をする。
壁はふたりを隔てると同時に、意志疎通を可能にもする。
シモーヌ・ヴェイユ 冨原眞弓訳
雨が上がった翌日アキ・カウリスマキ監督作品をオーディトリウム渋谷に観に行った。観た後の駆り立てられるような関心を覚えるある種の、その外にある映画だった。しかしこの日、私の関心は別のところにあった。上階のユーロスペースで2月に上映されたパオロ&ヴィトッリオ・タヴィアーニ監督「塀のなかのジュリアス・シーザー」の映写媒体が何であったか。それが知りたかった。私の質問に劇場関係者は映写技師に確認するから、と快く回答してくれた。そしてそれがフィルムであったことを確認できた。
フィルムかデジタルか、媒体の違いが圧倒的に、歴然と、これほどまでに全く異なる印象を私に与える。以前澤野計氏がフィルムというメディアは消えてはならないと私に熱く語って聴かせてくれ、私はそれを当然のことだろうと耳を傾けていた。今なら彼がなぜ怒りにも近い熱さを帯びていたのか分かる気がする。「塀のなかのジュリアス・シーザー」に憑かれたように、上映後私はすぐにDVDを買った。そしてすっかり落胆した。DVDに私を虜にしたアウラがすっかり消え去っていたから。私の言うアウラとは、主体と対象が相互に作用し合うことで顕われたり顕われなかったりする。言い換えればそれは身体的な体験で、「おもしろさ」に近い。
「塀のなかのジュリアス・シーザー」は、重刑で服役中の囚人達がシェイクスピアの戯曲「ジュリアス・シーザー」の上演にあたり芝居の稽古をする。稽古を繰り返し重ねるうちに各々の性格や過去をその役どころに投じる。なぜ裏切ったのか、大義かそれとも嫉妬に駆られたのか、何を欺いたのか、過去を反復、葛藤し、しだいにシーザーにそしてブルータスに同化して行く。そして遂に、殺伐とした刑務所がローマ帝国へ変貌する。と、錯覚する。
「塀のなかのジュリアス・シーザー」は、ノイズ要素をきれいに排除し、全ての色を決まったトーンの枠に処理されたデジタルでなく、意図した対象だけでなく混在するノイズを残したフィルムに、作品を芸術に導くアウラが顕われた。
一方ベンヤミンは、複製技術において欠けているものは「いま、ここ」という一回限りの在り方であると言う。この一回限りのものを有するのが芸術作品のアウラであり、作品を本物ならしめている。アウラを纏う事物は伝承され、伝承が権威を形成する。アウラは権威のしるしとなるのだろう。しかし映画などの複製技術は、複製されるものを一回限りに出現させるのではなく大量に出現させる。コピーによって本物であるという権威のしるしを剥がす複製技術は、その対象を伝統の領域から解き放つ。ベンヤミンは演劇と映画を区別し、一回限りの舞台にアウラはあるが、複製可能な映画のスクリーンはそれを欠くと続ける。
ベンヤミンが言及するアウラ、場所と時を限定しある一部のその体験に肖ることが出来る人たちに伝承される本物に、誰でも何処でも何度でも再生可能な大衆に依拠する(偽)物が取って代わる瞬間に、芸術の社会的機能全体が大きな転換期を迎える。
「芸術は儀式に基礎をおくかわりに、ある別の実践、すなわち、政治に基礎をおくことになる」
ところが、そうならなかったことを笠井潔著「〈戯れ〉という制度」は教えてくれる。
私は笠井潔氏に作品を知るより先に会った。出会って半年以上を経ってから、我が家の書庫に夫が学生の頃買ったこの本があることに気付いた。笠井潔氏は蓮實重彦著「物語批判序説」を引き、〈戯れ〉をめぐる言説を批判することにより「真の戯れ」なるものが存在しているというコノテーションをまき散らし続け、それらは市民社会の共同観念のシステムにふさわしく抑圧と顛倒を繰り返し、執拗に隠蔽していると言う。制度に頽落した〈戯れ〉は、たのまれもしないのに続々とやってくるエピゴーネンによって、どこか「ほんとうの遊戯」がある、というあいまいな期待と希薄な確信を供給されつづけ「物語批判」をしながら、あらかじめの「物語」にくみさせる。それを可能にしているのが、欺まん的な特権性であると激しく批判する。
ここでは大衆に依拠する言説は権威の名のもとにエピゴーネンを連ね、特権性に保障される者の言説を再現、模倣、反復する。
ベンヤミンが説いたアウラを纏う事物は、複製技術が出現し、反復、再生が容易くなった現代においてもなお増幅し続け、その対象を伝統/(〈戯れ〉の)制度という領域から解き放つことはしないのだろうか。
批判の身振りを演じる肯定の、巧妙な隠蔽であるアウラのヴェールを、実体があるならその裸を見せてみろ、と言わんばかりにヴェールを引き裂き、剥ぎ取る笠井潔氏の激しさを、人は常に冷静で穏やかな気遣いを見せる彼の表情から読むことができるだろうか。
「塀のなかのジュリアス・シーザー」がフィルム上映であったと判明した翌々日、清家竜介氏と夫と行ったJAZZBiS階段は、「〈戯れ〉という制度」を読み返すきっかけとなった。彼の指摘は今もなお、バッシングと的外れな擁護の対象となった佐村河内騒動と、小保方問題で浮上したアウラに導かれる大衆の制度を顕在化させているのではないか。
「ノイズは身体的苦痛あるいはその脅威として…その受容が回避される。—私を脅かすノイズは、私が自分に対して規定する他者の一部である。—ある種のノイズは〈他者〉の音と関わり、最高度に権力と共謀し、ノイズ規制を生み出させる」(ノイズ/ミュージック ポール・ヘガティ)
身振りのアウラを纏わない限りノイズは、それが快であれ不快であれ常に主体の身体的な反応で判断される。それは、形式や制度に隠蔽されることで維持する安穏と調和に混乱を呼び起こす契機となるだろうか。
笠井潔氏の攻撃と寛容は、立ち上がるノイズの壁のこちら側とむこう側かもしれない。
壁のむこうに在るのは、神でも制度でもなく身体に囚われた私だ。
参考文献
ベンヤミン・アンソロジー、W・ベンヤミン 山口裕之編訳 河出文庫
〈戯れ〉という制度、笠井潔 作品社
ノイズ/ミュージック、ポール・ヘガティ 若尾、島田訳 みすず書房
cameraworks頁 笠井潔エッセイ
菩提寺光世|2014.04.28