過去はすでになく 未来はまだ来ない
哲学をうたがう非詩(2002) 高橋悠治
視野が確実な死を捉えた瞬間、そこから人は、抗しがたく死へと邁進する「生」に生きる。そう思わせる映画がある。ベルトラン・ブリエ監督「バルスーズ(1974)」、ウェイ・ダーション監督「セデック・バレ(2011)」、ルキノ・ヴィスコンティ監督「ベニスに死す(1971)」、そして黒澤明監督「生きる(1952)」。
死を迎えることで死から解放される生は、その最期の時まで死を目指す衝動が生の快楽と重なり合って突き進む。
バルスーズでジャンヌ・モロー演じる中年女性は、刑期を終えた女に、渇望する性の欲求があるにちがいない、と刑務所前で待ち構えた見ず知らずのアウトローふたりに、残りの生の全てを預けることになる。息子ほどに若い彼らとの交流のなかで、閉経を憂い、性の潤いから遠ざかった彼女に、再び浸み入る水のようにひたひたと生の喜びが満ち始める。摂食障害を思わせる彼女の食べ方を不良二人が庇護的にたしなめる。
灰色の空の下の、夏のきらめきが遠くかなたの氷雨の海岸。買って貰ったばかりの安物のコートの襟を立て左右の男と腕を組み、縺れ合うよう歩く彼女の先に、今、此処がもう二度とは来ない幸せであることを知っている。若い男二人との性の快楽に浸された後、眠りについた二人を起こさぬよう気遣う女は、膣に入れた銃口の引き金を引く。生理があがった女の体内から、再び鮮血が溢れ出す。
青空の下、晴れやかに高揚した青年。この日台湾の少数部族セデック族青年は、「セデック・バレ(真の男)」になる。敵部族の狩った首を手に帰ってきた青年を、女も子供も部族中が讃えて祝う。敵の生を破壊して初めてセデック・バレの証である刺青を得る。敵族の首を狩れない男は、刺青を入れることができない。死後、祖先が守る永遠の狩り場を守ることが許されるのは、セデック・バレの証を持つ男だけだ。それが彼らの掟である。日本による台湾統治の折りに、この掟に生命をかけ抗日戦を繰り広げた彼ら部族の物語は、さほど遠くはない過去の出来事である。
日本女性と結婚し日本兵となったセデック族の若者がいた。部族の蜂起とともに軍服を脱ぎ捨て、セデックの民族衣装を着ける。日本軍の圧倒的な兵力に追い詰められた彼は、その時を目前に問う。セデック・バレとして、それとも天皇の赤子として切腹するのか、と。
腹を切り裂くことで、引き裂かれたアイデンティティーが回復する。野蛮の誇りが、バネのように硬くしなる筋肉と苦痛に歪む顔に現れる。
旅客船が待ち受けるベニスにゆっくりと入港する。「ベニスに死す」ことを予感するほどに、ターナーの絵画に時間が入り込んだように画像は、上から下へ流れるフィルムのなかで朝霧にけぶる。主人公の老作曲家は、そうも残されてはいない生命の限りのなかで、真の美を希求し彷徨っている。この生きて移ろう風景/自然のなかに天の啓示のように美があるに違いない。美は芸術家によって作り出されるものでなく、予想を越えた存在である、と言う老作曲家。対して、芸術家の技巧の結集が美の頂点に達すると譲らない若い作曲家との論争は、互いに合意を得ることがない。そして老作曲家は、初々しく汚れを知らない少年タッジオに出会ってしまう。この美しい少年こそが、老作曲家の美の証になる。人の技巧が及ばない、神から授かった若き生命の虜になる老人。疫病が蔓延し、死の影が迫りくるベニスで、性衝動に心を掻き乱される老い果てた作曲家。老作曲家の指揮のもとマーラーの交響曲が乱調の不協和音に終わり会場がざわめき立つ。罵られ、評価から見放された失意と、疫病感染で死が目前に迫ってもなお、少年がいるベニスから離れられず、少年のそばにいることで生のきらめきを実感する。彼のエネルギーが尽きるまで少年を追い求めずにはいられない。老いを隠す為の白髪染めと化粧が、醜く崩れ顔面に流れ落ちた時、彼の目は自らの死の先に、波に佇むタッジオを捉えた。逆光が、砂浜とさざめく水面そしてタッジオを照射する。世界が真っ白に浮かんで見える。タッジオが指した彼方へと導かれるように、最期の瞬間の至福を老人は迎える。
「生きる」は、胃癌で余命を意識し、はじめて生きることを決意した市役所の職員が主人公の作品である。「何もしないことをする」お役所仕事に無為な時間を費やしてきた定年退職前の市民課課長が、同じ市民課を退職し、今は玩具工場で働く元部下である若い女性に鬼気迫る表情で教えを請おうと懇願する。
「君は、どうして、そんなに活気があるのか。私は、死ぬまで、1日でもよい、そんなふうに生きて、死にたい。いや、それでなければ、とても死ねない。私は、何かしたい。何かすることがある。ところが、それが分からない」
それに対し、彼女はゼンマイ仕掛けのうさぎを動かし、私はこんな玩具を作っているだけ、だけどこれを作り始めてから日本中の子供と仲良しになった気がする、と言う。この言葉をきっかけに、仕事に生きる決意をする。彼の生は真っ直ぐに死を目指す。下水設備が行き届かなく、雨のたびに雨水がたまって異臭が放つ地域のおかみさんらの陳情である公園造設に、お役所の常套手段であるたらい回しが繰り返されても、落日の美しさに目を奪われても、無駄な怒りや感動をしている暇はないと、限られた時間を憑かれたように仕事に生きる。公園が落成した雪が降りしきる夜に、「命短し恋せよ乙女」と、しみじみと浸み入るような唄声で彼はブランコに揺られていた。
それが、公園で息をひきとった彼の最後の姿であった、と警官は葬儀の席で証言する。葬儀参列者一同は、その生き様に息を飲む。上司も部下も同僚も、感きわまった葬儀の席で、心新たに、市民のための市役所であらんと、職務遂行を誓い合う。
そして結局、翌日からのお役所仕事は、彼の生とも死とも関わりも変化もなく延々と続く。
しかし一方公園では、子供たちの笑う声と母親が子供を呼ぶ声が行き交う。おかみさんらと子らの声に、彼が生きた痕跡があるように映画は終わる。
決められた軌道からの 偶然のわずかな逸脱が創造する
哲学をうたがう非詩(2002) 高橋悠治
菩提寺光世|2014.10.20