道はなお路のごとし

投稿日:2015年06月24日

アポリアについて  – 先の「歓待のアポリア/テオレマ」の解説として

 

 アポリアとは、古代ギリシア語の”a(「〜なしに」)”と”poros(「道」もしくは「通路」)”に由来する。すなわち「行き止まり」であり、そこから「選択することの困難」を意味するようになった。

 

 アポリアは、デリダの思想の重要な構成要素(哲学素)となっている。たとえば、デリダは”歓待(ホスピタリティ)のアポリア”すなわち他者を歓待することの困難について語っている。

 

 私達は、通常、無条件に他者を迎え入れているわけではない。例えば客人を迎えるホストは、何らかのかたちで条件つきの歓待しているものである。例えば、歓待をする際の客人の選別やマナーを含めた様々な規則が存在する。私達は、特殊な規則の枠組みの中で客人をもてなしているわけだ。それはホストの意図や利害に基づいて、客人となる他者を計算可能なものへと切り縮めていることでもある。それは真の意味で他者を歓待しているではなく、一種の選別・排除を通した、見返りを期待する取引となってしまっている。そこには、必ず不義の可能性がつきまとう。

 

 他方でデリダは、無条件の歓待の可能性を考察する。無条件の歓待とは、特定の規則を超えて、計算不可能な他者を迎え入れるものである。計算不可能な絶対的他者とは、私達がそれまで用いてきた暴力や不義を咎める者であるかも知れない。あらゆる歓待は、実のところ限定された客人を歓待する特殊な相対的条件と、不可能なものである絶対的他者を歓待する無条件の正義の二重性を帯びている。

 

cameraworks by Takewaki

 

道はなお路のごとし。人の往来するゆえんなり。
 ——
二儀有りといえども、実は一理なり。

評釈
「道はなお路のごとし」とは、(中略)朱子にあっての規定は、人が踏み外してはならない道という強い規範性をもっていわれる。(中略)
それに対して仁斎が「道はなお路のごとし」というとき、人々が道路を通行し、往来するそのことによって道の概念があることがいわれるのである。
「仁斎学講義 『語孟字義』を読む」 子安宣邦

 

アメリカの黒人教会でのミサのさなか、突然入って来た白人男性が銃を乱射し、黒人複数名の命が奪われた。つい先日報道された事件である。「最も黒人が多く集まる場所を選んだ」と容疑者は、ネット上で声明文まがいの書き込みをしていた。テレビにはマッシュルームカットの金髪の下から覗く碧眼と、そばかすまじりの白い肌の青年が映し出された。
無条件に解放された門扉からの計算不可能な訪問者が起こした惨事。

 

かつてナチスは、選民意識の元に自民族の領土を拡大し、劣等とみなす他民族や人々をことごとく計測、選別、排斥し、遂にはホロコーストの「(精神の)炎」で焼き尽し灰にした。

 

灰は、証人の消失を証言しています。記憶の消失を証言しています。
インタビュー J デリダ 1987

 

異邦人を排斥しホロコーストの悲劇を生んだナチスと、無条件に解放されていた扉が招いた惨事は、他者を迎え入れたか、入れなかったかという相反する態度によって招かれた事件ではなく、来訪者の、もしくは内在者の相通じる中心主義的な何かが引き金を引いた結果だろう。その中心主義的な何かは、約束されていると信じる終末≒目的(テロス)にとって代われる、ひとつの起源の神話に回帰し、他の者まで閉じ込める。

 

イサク燔祭で神(ヤーウエ)は、死を与えるその瞬間に、秘密を顕にし、(イサクでもアブラハムでも他の誰でもなく)自分自身の前で誓う。その瞬間に父子関係を二重に裏切る。

 

その唯一の瞬間から、自律性と他律性は、もはや〈一つ〉にしかならない。
「死を与える」 J. デリダ 1999

 

デリダの問いかけ(≒ 応答)は、常に二重性を帯びながら、一貫した同一の責任に応えてくれている。

 

あらゆる種類の「潔癖な良心」の傲慢さを避けるため(中略)、次のことをたえず念頭に置かなければならない。すなわち、「責任」とは何を意味するのかを十分に概念化したり主題的に思考することなく責任を要求してしまったら、かならずなんらかの無責任が忍び込むこと、すなわちあらゆる場所に忍び込む。
「死を与える」 J. デリダ 1999

 

究極のアポリアとは、アポリアとしてのアポリアの不可能性である。
「アポリア」J. デリダ 1992

 

デリダ、仁斎、パゾリーニ、仲正昌樹氏、子安宣邦氏、このブログ解説者、鶴岡真弓氏そして名もない多くのものたちからの「散種」以外にありようがない贈与への謝意とともに

 

菩提寺光世

2015.6.24 投稿|