はじまりは、いつも偶然であったりする その2

投稿日:2017年12月27日

cameraworks by Takewaki

 

イベントがはじまってから

 

当日はインテリア改装のソフトオープンだった。特にインテリア改装とイベントが関連を持っていたわけではない。日が重なったのは関係者のスケジュール上の都合によるものだった。しかし振り返って見れば、インテリア改装もイベントもポストモダンの文脈として、大きなひと連なりの出来事として捉えられるのではないか。はじめにインテリア改装の説明をしようと思っていたのだが、アクシデントのような仲正先生の遅刻が私の頭を真っ白にした。霧中に漕ぎ出す一艘のように何処に向かうか見通しがきかないなか、誰もが気が抜けない緊張と集中を要した。

 

出だしは、60年代後半米原さん少年期、九州での出来事からだった。影響を及ぼした叔父がいた。「ひとりは九州の社会党の上の人だった。」叔父はデモ活動に連れて行ってくれた。そこに当時流行り始めたシースルーファッションの女性が歩いてきた。その女性にデモ隊の目が止まった時、シュプレヒコールは「安保粉砕!」に続いて「スケスケ賛成!」とこだました。少年米原康正の関心が「安保粉砕」より「スケスケ賛成」にグッと寄せられた瞬間だったという。ちゃんとした大学に入り、ちゃんとしたサラリーマン(公務員を含め)になり、ちゃんとした結婚を母親から勧められた米原さんはそれがどうしても嫌で家出した。その後浪人して大学へ入学した。

 

それぞれが過ごした80年代を語るなか、仲正さんがいきなり「ご存知の通り、私は入学してすぐに統一教会に入ったので、カルチャーの現場がどうであったかは知らない」と発言された。刺激的だったのは入信するに至った経緯を、受験の文脈上で話されたことだ。

 

当時「統一教会が大きくなった要因に、左翼の衰退がある。左翼的な尖り方が通用しなくなってきたからだと思う。入信する学生の多くは、70年代は元左翼、民生出身者、その後は新左翼となり私の世代あたりからは田舎で勉強ばかりしていたようなタイプで教団は彼らの受け皿になっていたように思う。」左翼とたたかう勝共連合のイメージに対する質問には、「入信者にはむしろ左翼に近いものを強く感じていた人たちが多かった」という回答だった。
「東京大学を目指し入学してくる青年は、何らかのコンプレックスを抱える弱い人が他より多いように思う、一般的には。正に自分がそれにあたる。弱く、社会性もないから東大にでも入らない限り社会人としてまともにやって行けないのではないかと思うほど人とコミュニケーションをとることが苦手だった。がっしりした体躯のいかにも強そうな人物であったとしても、内心弱くて問題を感じているようなタイプの人間に多数接触した。自分もその一人だった。だからこそ(誰にでも通じる)自分を守るもの(名前)が必要なのだ。世間では、金属バット両親撲殺事件、仏文の教員の孫娘が祖母を殺害、祖父も父も東大教授で、本人は慶応大学に入学していたが祖父を悪魔といって殺害、というような事件が相次いでいた」と仲正さんは当時の事を話した。

 

確かにあの頃、現在とは比較にならない数の受験生がしのぎを削っていた。
浅田彰も「構造と力」(勁草書房 ’83)で、「序に代えて 《知への漸進的横滑り》を開始するための準備運動の試み 千の否のあとの大学の可能性を問う」という文で「彼らは大学入試だけを目的として何年間も空疎な勉強を強いられてきたはずだ。それなのに、まだ飽きないのだろうか。一体どんな風にして、これほど醒めた賢明(ワイズ)な処世術を身につけたというのだろう。」
「奇妙な老成と温室育ちの幼さとを兼ね備えたかに見える彼らの間でこんなことを考えていると、自分だけが成熟しそこなった小うるさいガキのように思えてくる。」
「受験戦争の修羅場をくぐり、累々たる同胞の屍を踏みこえて、あなたはいま大学の門の前に立つ」等と述べている。

cameraworks by Takewaki

 

人物を保証する威力を出身大学名が発揮するはずと親も子供も疑わず邁進していた頃だった。そこから距離をとって冷淡に時世を評することは容易いことだろう。しかし幾人かの受験生たちにとっても、是が非でも合格しなければならないと突き進むに切実で複合的ななにかがあったのではなかろうか。さもなくば枠に入りきれない自分を、もしくは環境や社会を壊しでもしない限りは前には進むことができないと思うほどの圧力を感じていたものが少なくはなかったのではないだろうか。
仲正さんが接した一人に、後の元オウム真理教幹部で理三にいたI氏がいた。I氏はその頃まだ完全にはオウム真理教に入信しておらず、統一教会に仲正さんが連れて行ったというのだ。「左翼に近い社会疎外論を持つ傾向にあった統一教会信者たちに比べ、I氏からはそれをあまり感じなかった。むしろ反社会的なものよりも、もともとヨガをやっていた彼は自分の身体に意識が向いていたように思う」という。

仲正昌樹にとって自己防御のための「名前」(ブランド名)と、それとは全く反対に足枷になりかねない、事実なったであろう世間を騒がせた新興宗教入信とさらには11年半にも渡り統一教会に所属し続けた理由は、同じ因に端を発する同一線上で語られたように感じる。コミュニケーションをとるのが苦手だった彼は勉強ばかりして自分を守ってくれる「名前」を与える大学に入学した。理一を目指した理由は、将来技師や研究者になれば他人とあまり接触を持たずとも黙々と仕事に専念でき生きていけるのではないかと考えたからだという。規則や決まりごとを受け入れる生活の方が彼とっては楽だったのだろう。また教義に基づく日々を繰り返すことが、彼にとっての言わば生活や対人関係を円滑に行っていくための技術習得の場、訓練であったのではないだろうか。相反する経歴に会場にいた誰もが納得していた様子であったのは、主体性をなくし受動/受け身に徹する文脈で語られたからだと思う。人より際立ち秀でる才能があるのと同様に、苦手なことがあるのはよくあることだろう。しかし当たり前とせず、何もかもを均一化された枠に閉じ込めようとすることは非理性的な態度とも言えないだろうか。

 

受験勉強あるいは宗教教義が課す命題に自ら進んでくみし徹底して服従する受動が、イベント後半思わぬ事象との結びつきによって語られることになった。

 

話はそれぞれのシーンで過ごしたリアルな発言を通し、地方におけるいじめ問題の現状からきゃりーぱみゅぱみゅへ、きゃりーからイーノとサティの環境音楽、その関連でアドルノなどの聴取者の集中聴取と散漫な聴取(ながら聴取)の概念を経て、佐村河内守音楽作品の受容のされ方から、大衆と受動性の話に展開して女子カルチャーの話に戻ったところで、仲正さんが米原康正作品の現在のテーマになっている「前髪」に、先の受動性からのアプローチで、サディズム、マゾヒズムや、自らの体験を重ね深く考察を掘り下げて行った。米原さんが「自分に任せてくれたら、パラリンピックのアスリートをエロティックに撮りたいと思う」といった発言があった。米原さんは均一性を美しさ、エロスの必要条件とは考えていないのだろう。「日本ではエレファントマンの方がイレイザーヘッドより先に公開され、所謂ヒューマニズムの映画として派手にプロモーションされていたので、そのように大衆からは受容されたが、後にイレイザーヘッドを見て皆が絶句した。それは香山リカさんの80年代についての著作にもかかれている。」と菩提寺が述べた。それぞれが過ごした全く違う生活場面の、一見バラバラで何の脈絡も見えないような発言の数々は、どこかでひとつの流れに合流するようにも思われた。
詳しくは、テープ起こしを待ち、報告したいと計画している。

 

今思えば、遅刻によるヒヤヒヤ感に追いつめられなければ、このような話になっていなかったのかもしれない。霧のなか慎重にオールを繰り出し漕ぎはじめた舟は、仲正さんのいきなり発言がエンジンとなって一気に加速し突き進んでいった。

cameraworks by Takewaki

 

イベントが終わり 
「父パードレ パドローネ」と「花ひらく家庭天国」

 

パオロ & ヴィットリオ タヴィアーニ監督作品「父パードレ パドローネ」は70年代後半に制作され日本では80年代に公開された。父親であり家長として、子に君臨する父がタイトルになっている。家父長という制度としての主従関係が明確な頃の物語りである。海によって外部との接触が閉ざされた島の小学校から物語ははじまる。教室にやってきた父親の手には木の棒が握られている。父親が命じるままに小学校を退学させられ、人里離れた山中で羊飼いとしての仕事だけに没入することを強制される。島の羊飼いの子供達はみな羊の番以外に興味を示す気持ちさえも許されない。すべてを父に従い、歯向かえば暴力による制裁が待っている。すべては父によって監視、制御され、遊びも昼寝も異性への関心すら子には許されない。思春期を迎えて突き上がる性の目覚めや欲望のはけ口は獣姦である。他者とのコミュニケーションも許されず、父に命じられるままを生き、無学に育ち成人した青年は移民を申請するが父に阻まれる。文字を知らない彼の署名は十字の記号だった。
原作はその後大学教員となった言語学者ガヴィーノ・レッダの自伝によるものだ。レッダ本人が映画に登場して言う。
「自分の古巣、同胞やにおいを離れる不安。番小屋で知った沈黙の不安。囲いに閉じこもってしまう不安」そして彼は、命令と服従が支配する島に再び戻る。

 

一方の「花ひらく家庭天国」は、81年からガロに掲載され83年に単行本として発刊された根本敬最初期の漫画である。主人公は村田藤吉、一家の主人/父親である。ただし父親とも主人とも呼ぶにはあまりにも弱々しく、職場にあっても家庭にあってもどこにあっても極限までの受け身のお父さんである。叩かれようが罵倒されようが疎ましがられようが何もなかったかのように受け入れる。言われるがまま、されるがままに受け入れる村田藤吉は、遂に無実の殺人犯の罪まで受け入れ刑に服する。一家にお父さん不在の時が訪れる。無知で無能で役立たずのお父さんの不在に、一家の団欒はわびしく寒い風がふく。されるがままの無能なようであったお父さんが実は家族の主軸になっていた。家族の誰もがお父さんの帰りを待ちわびるのである。父親不在の村田家では、今度は息子がいじめの標的になる。殺人者の子として近所の子供たちに撲殺されてしまう。息子の何十周期かの法事の折、出所し老いた村田藤吉一家に成人した加害者たちが焼香に訪れ漫画は終わる。彼らが差し出した名刺は、国会議員など錚々たる肩書きばかりであった。その「名前」(肩書き)に、村田藤吉夫婦はたいそう感心してしまう。根本漫画におきまりの逆転の逆転は、感情さえも転じさせる。

 

「父パードレ パドローネ」では家父長制における従すべき立場の息子の受動的な役割と、片や「花ひらく家庭天国」の威厳のかけらも持たない父の極限の受動性は、どちらもある種、家の制度となって家族の役割を担いバランスを保っている。それは、家の制度という体裁を取りながら、個人がそれを受け入れることで自らを枠づけコントロールする制度を獲得しているかのようである。

服従は、反抗すらできない「弱さ」の象徴のようでありながら、服従し続ける忍耐力の並外れた「強さ」の表れでもあるようだ。受動に徹し名前をなくすことで、名前を獲得する。もしくは名前を持たずとも強い名前に拠ることで喪失や欠落を埋めるということだろうか。

 

cameraworks by Takewaki

 

80年代は、どのような時期であったのか。
それが今の何と繋がっているのか、繋がらなかったのか。

 

獲得しようとし逆に見失ってしまった主体が、なくすことに徹したことでその輪郭を現しはじめたように、それは行ったり来たりしながら揺らいでいる。
無防備で受け身に見える少女の姿に前髪をペイントすることで反転し攻撃性が見えてくる。米原作品について仲正昌樹が以下のように言った。

「受動的なもの同士を組み合わせると、たまたま違うものが出てくる。ひねった形の能動性というか。——究極の受動が究極の主体性となるように、完全に委ねて初めて獲得する。——ぎりぎりの受動性で、攻撃に転じる前に逃げたいと思わせる欲求を誘う感じが出ている。最初から攻撃に出ていたら、こちらの態度も征服するかされるかだが、向こうが責めてくるぎりぎりまで行ってやろうと、複雑な感じの欲望を起こさせる」

 

臆病さと攻撃性が、少女の揺れる「前髪」の陰で、不気味に見えたり隠れたりしている。

yonehara yasumasa

 

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参考文献:
「構造と力」(勁草書房 1983年)浅田彰
「ポケットは80年代がいっぱい」(バジリコ 2008年)香山リカ
「花ひらく家庭天国」(青林堂 1983年)根本敬
 
 

菩提寺光世|2017.12.27

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