根本敬×仲正昌樹×菩提寺伸人トークイベント第二弾

投稿日:2019年04月15日
cameraworks by Takewaki

菩提寺:根本さんの漫画をみてて思ったのですが、根本さんはあまり流行を意識して作品を作られたことがないのではないかと思いました。自分が出したもの、自分の作品から影響を受けて、何かに関わったことで自分から出てきた表現、子供の頃を含めて昔の自分から、キャラクターからの影響をずっと継続していて、そこに、光るものが乗っかったり、昔の自分から影響を受けて、今の自分と重なって新しい表現を出したり、それにまた影響を受け繰り返し重積、堆積していくような感じがします。時にハウリングやフィードバック起こしたりもして。特に青林工藝舎から2004年に出版されたこの大変先鋭的な作品『命名』を見ると、今まであったものが、キャラクターも、内容も絵、想起、連想した音楽とか、あと新しい手法も含めすべて重積しているような感じがする。それが絵の処理にも表れているような。(『命名』のページを示しながら)絵そのものがコピーで重なってしまっているところもあったり、拡大してグリッドが強調されて、そこと他のもが関連づけされたりしてその結果、時間も重なってしまって、止まったり、後になって突然出てきたり。例えば歯科医と寿司職人が時間を越えて重なってしまっている。この要素はこれの後半に出てきていた要素が、時間経過が変化してるから、ない部分もあるけれども。最高傑作『命名』については後に話したいのですが、それの前駆的なものが、これ(『Let’s go 幸福菩薩』袋とじ内側を示しながら)のコラージュにある。これ(『Let’s go 幸福菩薩』)の写真のコラージュが、『命名』のこの人物とかにあると思うんですよ。これが出た時に、やっぱりすごかったんだなと思いました。衝撃を受けて、3冊も買って、これは封を切ってない本の1冊だけど、封切らずに計2冊を保管しています。1冊は袋とじを切って読んだ。

司会::『Let’s go 幸福菩薩』。

菩提寺:僕にとって『Let’s go 幸福菩薩』は、根本さんはお詳しいので音楽の例えでいうと、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのセカンドアルバム他という感じです。『ホワイト・ライト/ホワイト・ヒート』のベース、ノイジーな壊れたオルガンの『シスター・レイ』とか、トム・ウィルソンが野放しにしてノイズ音楽が顕在化してきたかなという感じ。ルー・リードの歌詞も効いていて、自分をプレゼントとして送って箱ごと切られて血だらけになって死んでしまうという詞の曲とか。その後ルー・リードはソロになって歌もののレコードを出してグラムロックに影響与えた後、いきなり『メタルマシーンミュージック』をつくりました。当時はレコード会社を含めて一般には大変評判が悪かった。しかし極一部の人からは大絶賛されたというレコード。『Let’s go 幸福菩薩』はヴェルヴェッツの2ndとメタルマシーンをつなぐような作品のイメージが僕のなかではあります。ルー・リードのメタルマシーンが出た時に、「やっぱりルー・リードがやったね」と言った人が何人かいたらしいんですよ。「初期のヴェルヴェッツ聴いてる段階で、やると思ってたよ」って。現代音楽、ミニマルに近いジョン・ケールではなく詩と歌の人であるルー・リードが。まさにそういう感じがしたんですよ。

根本:『メタルマシーン』はあと何年で50周年なんですかね?

菩提寺: あれも75年。

根本:あと5年ぐらいで50周年。50周年延命措置で、50周年延命ショーっていうので、『メタルマシーン』が。

菩提寺:2000年代に入って、ライブやりましたよね。ルー・リード自身がトリオで。4chも出したり。ジョン・ゾーンのザ・ストーンでインプロライブもやったり。

70年代には一時、メタルマシーンについて自己批判していたみたいだけれど、最終的にはメタルマシーンに対しては肯定的だったということでしょうか。

根本:変ですよね。デモ・テープがすべてだから。1万8千円ぐらいで6枚組でさ。1枚3000円ということで……。

菩提寺:自分でレコードにしたものを聴いたことがないなんて当初ル—・リードは言っていたみたいだけど、16分1秒で1面ずつふっただけとか。確かに今後ボックスセットが出たらパンで音ふったり、実はル—・リードなりに細かいこと考えてやっているのがわかったりして、おもしろいかもしれない。

根本:でたらめの様で考えていたんですね。

菩提寺:それで、根本作品に話を戻すと何が言いたいかっていうと、流行りものとは関係なく、ずっと重なってきてて、しつこく続けてらっしゃる、そういう意味で根本さんは変わらない。『Let’s go 幸福菩薩』の元の画の子供の頃から。表現の変化はあり、変化してるんだけれども深いところからきているのか最初のものからの転向はない。

根本:ていうか、それしか描けない。

菩提寺:一方で媒体(メディア)を変えることで、活字媒体とか、さらにそこでフィールドワークのような感じでいろいろな人たちに会ったり、映像、ビデオ作品を制作されたりという時期、その後はジャケ画をつくられたりとか。レコードジャケ画も大阪アビーロードみたいな作品(東京キララ社のブラックアンドブルー、TEE PartyのTシャツ)のようなすばらしい表現をされるので、ビートルズとニューミュージック(今でいうCityPOP、ヨットロック)が好きな人達には苦すぎる。正にパンクという感じ。でも一応ビートルズ関係なので、パロディ物でも買わないといけないことになっているタイプのマニアは買うことになるかもなどと勝手な想像するとおもしろい。オノ・ヨーコを批判しながらもレコードは一応ビートルズ関係だから買うという感じで。『亀ノ頭のスープ』に収められている「生きる(懸賞大当りの巻)」にも通じるものを感じます。ところでジャケ画というのはどこから始まったのですか。どういう発想から? なにかきっかけがあったのですか?

根本:ちょっと、塗りで絵を描いてみようと思いました。

菩提寺:塗りで。

根本:塗りでね。

菩提寺:そこから『樹海』に展開したのでしょうか。

最初はどなたか出版関係者から、ジャケ画を描いてみてと言われたとかそういった事はなかったのですか。例えば、黒寿司って、ブルースインターアクションズから、ソウル音楽に関して描くという仕事が来てインスパイアされたというのではないのですか?

根本:ブルースインターじゃなくて、これは商売敵のシンコーミュージックの方。『FRONT』に連載してて。

* 注釈 『アックスvol.67』(青林工藝舎)「緊急座談会 根本敬×南伸坊×みうらじゅん「キープ・オン」は真理の神髄!!」で根本さんは、「『黒寿司』って本はさ、版元はブルース・インターアクションズってとこで」、しかし連載したのはその競合誌である『FRONT』であり「わざわざ対抗誌の版元から出して、それで開くといきなり『FRONT』の表紙が出てる」ことを狙ったのだと語っている。

菩提寺:ヒップホップの本。

根本:そうですね。

cameraworks by Takewaki

菩提寺:黒人ということで出し始めて、そこから始まって今はジャケ画を描いてもらっても、根本さん的な、お寿司がよく出てくる。そう言えば、高橋悠治さんのフレデリック・ジェフスキーの不屈の民をレコードジャケ画でお願いし、完成した画を見て、根本さんがこちらにおっしゃったのは、ピアノの前に座ってる悠治さんを「これマイルスに見えませんか」というお話でした。そこにはもちろん寿司と寿司桶がコラージュされていた。マイルスだからこれが出てきたのかなと僕自身は思いました。でも、音楽的に普通、文脈、人脈だけ考えると、フレデリック・ジェフスキーで高橋悠治でマイルスっていうは、関連あんまりないなと思うと思うのですが、実は僕としては近いなと思うところが確かにあった。75年くらいのアフロヘアーのマイルスでしょうか。キーボードで不協和音を奏でていた頃の。悠治さん自身が、マイルスと八木正生は、評価されていたと記憶しています。ジャズ対しては辛口な人だけど。だから、根本さんのいう因果というのか、僕もこれを見てなるほどと、星はついてるし、裏面は高橋悠治さんじゃなくて、不屈の民をジェフスキーに委嘱したウルスラ・オッペンスのレコードジャケットで拳とアメリカ国旗のレコードも描かれているから。そしてズボンのように光っていた。

司会:そういう連関みたいなものがあるのでしょうか。ひとつの画面の中に異なる時間があったり。例えば、お願いした浅川マキのジャケット画に、いくらのお寿司が描かれていた。それは浅川マキとブルースと『黒寿司』というつながりはあるんですか?遊び心というか?

根本:寿司とか、……お決まりだから

仲正:やっぱりなんか腸みたいな感じのものが出てきますよね。

司会:内臓の?

仲正:そう、内臓の。内臓の中でも、特に腸のように見えるものがぐにゅぐにゅぐにゅっと蠢いている。管状のものがぐにゅぐにゅぐにゅしているのが根本さんの絵に特徴的なんです。手足の描き方にもそういう感じが出ています。

司会:さっきの水っぽいっていう感じですか。

仲正:そう、水っぽいね。水っぽい管がよじれている感じ。要するに、胎児のイメージに近いのかな。あるいは、両生類とか。人間って、もともと、お腹の中にいるとき、両生類ぽい形してるでしょう。発生学的にね。なんかその原形が根本さんの作品のいろんなキャラクターや模様に出ている--作品によっては、独立のキャラか背景模様かよく分からない場合もありますが。これまさにそうでしょ。オタマジャクシか精子かわかんないやつが出てきてますね。

司会:まだ形になってない。

仲正:形になってないけど、ちょっと形になりかけて。それがおもしろいのかな。明らかにおじさんで、ほとんど死にかけている人が、瀕死の状態になって、一層、精子、おたまじゃくし的な水っぽさを増しているような感じの絵が結構出てきますね。フロイトと仏教を合わせた言い方をすると、死(タナトス)に向かっていく中で、生の緊張から解放され、原初の静けさ(涅槃)に戻りつつあるのか、それとも、発生時から実はずっとこういうふうになっていたのか。人間の身体の深いとことにある液体的な層を表現しているような感じがします。

菩提寺:怪人無礼講ララバイこれは「天然」の後に出てきて、そういう意味ではルー・リードで例えると歌もの(トランスフォーマー、ベルリンなど)からメタルマシーンへという感じでしょうか。これまた良い作品だと思ったのですが、この表紙のデザインはファンカデリックのコズミックスロップとかの影響ですか? ファンカデリックも、あの曲自体が兄弟は皆実父が違う…云々から始まって、サン・ラ、後期コルトレーン、アルバート・アイラーにも通じるアフリカ系アメリカ人的宇宙観、ファンカデリックの宇宙があるし。相互に複雑に関係し何が根源かも分からない世界。けれども最終的に輪廻転生して、後先どっちが根源か意味がなくなる。そういう意味でもファンカデリック的という感じがあった。湯浅学さんの『大音海』の論考第2節「ソウル、R&B、ファンク」に「JBはファンク道を極めんとするパッションによって前のめりになっていたわけだが、ブーツィーとその兄弟によってもたらされた変革は、ひとつの到達点へとJBを導いたとはいえないだろうか。七〇〜七一年にかけて、」と書かれていますが、僕もその通りだと思います。

今、仲正先生がお話された、精子が先か何が先かわからないような状態が展開していて、そこに今までの作品の中のまた村田藤吉も出てくるし、佐吉も出てくるし、みんな出てきて、ぐるぐる回っていくっていうか。だから、死と生というのも関係してくるし、ジェームス・ジョイスのフィネガンズ ウェイクみたいに、死んで甦るとか死んで生まれるみたいな、全体が部分にも入っている。フラクタルというか。本編はもちろん線形ではないが、巻頭と巻末には本編と筆致の違う小話がついている。営業職の中年女性が本編を読む前と読んだ後で、若き根本さんらしき漫画家への印象が変わり、何かに腹を立て、陰で漫画家を呪うという小話。『学ぶ』にある「初恋福祉篇」の「誰とでも…」という小話に通じる面白さがありました。あと呉智英さんのあとがきの「程度の悪い普通、良識の気を引く異端」ではなく「ただただ異端」という話も根本さんを的確に表わしていると思いました。

仲正:今、気が付いた。これ蛇でしょう、それから、これ亀でしょう。で、これは、オタマジャクシか海蛇かわかんないけど、そういう形をしている。

司会:精子。

仲正:これ海蛇にも見えないこともない。

司会:猫もいるし。

仲正:猫もね。やっぱり、この舌がちょっと独立してる感じがするでしょう。精子が独立して意志を持つんだったら、舌が体全体から相対的に独立して、一つの生命体みたいに振る舞ってもおかしくない。アルトーの言い方を借りると、「器官なき身体」の中でいろんなパーツが勝手に動いている感じ。

司会:そうなんですよ、仲正先生。さっき仲正先生は、漫画はぺらぺらぺらぺらめくるものっておっしゃって、そこで、いや、根本敬の作品はそうじゃないんだっていうことでちょっと話し合いをしましたけど、今まさしく先生はその絵を見て読んでらっしゃって。その絵をね。これはなんだろうみたいな。

仲正:でもね、読んでるというよりはね。

司会:めくってるわけじゃないでしょう。

仲正:めくるって、いうのも一つの運動でしょう。文学書みたいにじっくり眺めるように促す作品が、芸術的で高尚ということでもないでしょう。今は、立場上、解釈しないといけないから、解説しているんですが。

司会:立場上だけじゃなくて、例えば、さっき私が言いかけたのは、彼(菩提寺)がさっき根本作品は気持ちいいと言ってましたが、私は、逆に、こういうのをみたり、いろんな作品を読んだりするのに力がいるので、どちらかっていうとしんどくなったり、気が重くなったりするけれど、だからっていってそれが嫌いかっていうと、そうではなくて、例えば、パゾリーニの「テオレマ」や「豚小屋」だとかベルイマンの「沈黙」「ペルソナ」やブニュエルの「自由の幻想」や「ナサリン」だとか、けっして流して見ることができるわけではないし、気持いいと思うような感想を得られるタイプの映画ではないと思います。けれども繰り返し観て考えてしまい、忘れられないという映画があるんです。むしろ私は、そのような中に、おそらく根本敬も入りつつあるんだっていう印象を持ちます。今まさしくおっしゃったみたいに、なんか根源的なものだとか生だとか死だとか、セックスの方の性だとか、食べるだとか、排泄するだとか、そういうようなものがぐちゃまぜになって、なんか最後の方の作品で、『命名』になってくると、映画みたいに時間を追って、ページをめくってるはずなのに、元に戻ってきたりする。ストーリーについて話しているのではありません。例えば放送状況が非常に悪いテレビ画面が急にノイズ一面になって、放送が再開すると最初の場面に戻っているような錯覚を覚えます。関連のない何かが混入したり、異物やノイズもまとめて編集しているような感じでしょうか。

デイヴィット・リンチの一部の作品やクローネンバーグの『ヴィデオドローム』、ブニュエルの『自由の幻想』にも同様の時間感覚を感じます。

菩提寺:繰り返しがありますよね。

司会:錯覚みたいなものを感じるような。だから、ちょっと眩暈がするんですね。だから、そういう意味で受け手にも力がいってしんどいなあって思いながらも読んでしまう。そういう作品のあり方だから、やっぱり今までのモデルっていうのからは、まったく、おそらくモデルっていうものがないか、もしくはまったく違う尺度でなにか表現しようとしたのか。

菩提寺:そういう意味では、湯村さんがもともと言われたお話だと思うけど、「ヘタうま」という話では根本さんを分類できない。というか、分類したところで意味がなくなっちゃうっていうか。おもしろいところは別のところにあるから。

芸術映画と言われているけれども、パゾリーニ、ブニュエル、ベルトラン・ブリエ、ドゥシャン・マガヴェイエフ、マルコ・フェレーリの『最後の晩餐』などは、根本作品と同様に下品きわまりない表現だったり、背徳的だったり、猥雑だったりもします。激し過ぎると芸術になると言ってもいい位。ルイス・ブニュエルの『ナサリン』という映画、僕が観るとキリスト教的なものを痛烈に批判した映画に思えたのですが、この映画はアメリカのカトリックから敬虔な神父を描いているということで賞を与えられたらしい。以前ブニュエルは『黄金時代』、『ビリディアナ』でキリスト教から批判されたので僕の感想はただの思いつきではないと思うのですが、同じ表現でも、人によってほぼ真逆の感想を生じさせる。根本作品にもそういうところがあるのかもしれない。

司会:ブニュエルの『ナサリン』について言えば、ナサリンは、ナザレのイエスを表わした名前とも言われていますが、貧民窟で布教する神父の名前です。神父が暮らす安アパートの窓はいつでも誰でも出入りできるよう解放されています。金品を盗まれても物ともしない自らの信仰をひたすらに貫き通す神父です。彼の元に殺人を犯した淫売婦が逃げ込みます。神父はこの淫売婦の魂を救うべく、真の信仰とは何かと説教しますが、彼女に住まいを放火された挙げ句、教会からは彼女との仲を疑われ神父の資格を剥奪され、行き場を失って巡礼の旅に出ます。この淫売婦と、外見は清楚だけど中身は性欲の虜になっている女を筆頭に一癖も二癖もある厄介な人々に巻き込まれ、巡礼の旅は神父の善行が裏目に出て、次から次へと苦難が降り掛かるストーリーへと展開して行きます。

筋としては単純な物語なのですが、何が印象的かと問われると、このどうしようもない淫売婦や、彼女に惚れ込む小人で外見は異形で一見下品に見える男と彼女が、何とも清らかに見える場面があります。それに反して次第に、この全く非の打ち所がないような善人であることを貫き続ける神父が、なんとも自己中心的な厄介な人物に思えてくるところです。

cameraworks by Takewaki

仲正:さっきも言ったように、何等かの形で支持している人、恐らく熱狂的に支持している人が一定数いないとヘタうまとも言われないと思う。たんに素人の絵っていうか、平凡な絵で終わってしまって。ヘタうまって呼ばれてるのは、なんか逸脱してるんだけど、特定の方向に想像力を刺激できるものでしょう。必ずしも、美しくないキャラクターに向かって。根本さんの場合、ある意味、人間の身体の基層にあることはみんな実は分かっているけれど、それが自分の中にもあると思うとあまりに気持ち悪いので、見たくないなって思う要素が前面に出てきているので、わかりやすいんだけど、他のヘタうまの人も、たぶんいろんな仕方で逸脱してるんだと思う。当然、その逸脱の仕方が、漫画家ごとに、その人のファンごとに違っているでしょう。ファンにとっては、普通の人にとっては見たくないだろうけど、だからこそ自分は見たいというものを見せてくれている。そういうファン・サービス的なところがあるから、成立してるんだと思います。ただここで、さっきの都築さんの議論を肯定するかのような逆説的なことになりますが、やはり、ベタにサブカルとしてのレッテルを貼らないと、こういうジャンル成立しないと思うんですよ。

司会:ベタにサブカル?

仲正:要するに、これは典型的に美しいものとは違うんだって、カウンターだっていうレッテル貼りして、分かりやすく表示することです。そういうレッテルのおかげでへそ曲がりが注目する。典型的に美しいものに注目する人が圧倒的に多いということを改めて印象付けることで、汚いものが抑圧されていることが際立つ。

司会:そうかも知れません。

仲正:近代以前の絵画でも、猥雑なもんだとか、気持ち悪いような絵とかあったでしょ。しかし、正統なきれいな描き方が確立されたことによって、正常でないものがいったん抑圧されたんだけれど、美しさの基準が固定してくると、意識下に抑圧されていたものがもう一回復活してくる。だから、漫画の世界は、むしろかなりベタに、美形のファンタジーの世界が出来上がっていて、それで漫画のマーケットが成立している。漫画見たい人のほとんどはそっち行くわけよね。絵画のように明確な様式はないけど、マーケットの動向で売れそうな傾向の絵が何となく決まっていて、それからはみ出さないで、それぞれの雑誌のイメージを守っていこうとする力が強く働いている。ファンの気分に左右される傾向と、描き方の画一化は、高級芸術化している絵画の比ではないでしょう。だから、それじゃつまらない、という反発も出てくる。

菩提寺:それは、正常でないものが抑圧されるかどうかは別にして、音楽でも、一部を除くハリウッド映画とかでも同じじゃないですか。だいたいみんな予想調和か、前もって善を措定しておいて勧善懲悪的なストーリーか、ピカレスクものになり易い。

仲正:そりゃそうですよ。ハリウッド映画はそういうものとして成り立っている。つまり、菩提寺さんが見たくない、おもしろくないっていってるようなやつがメジャーな地位を独占し続ける。普通の人が見たいものに群がってマーケットの傾向を持続させるほど、菩提寺さんみたいな人にとっては、どうして自分が見たいものを作ってくれないんだって、反発がひろがってくんですよね。抑圧されていると感じている人の間で、抵抗がだんだん大きくなっていくわけ。メインストリームがあるからこそですよ。メインストリームがなかったらね、それほど「逸脱したもの」に拘らないかもしれない。

司会:だから存続していく。

仲正:そういう面って必ずある。だから「サブカル」というレッテルは、双方にとって意味があるんです。

司会:増えないけれども存続していく話ですね。

仲正:典型ができるとほとんどの人は必ずそっちに行くんですよ。そっちの方が日常的に心地いいから。世の中の人は、“平均的にいいもの”をみたいわけね。すると、それはつまらん、って叫ぶ人が出てくるわけ。そういう人は、「サブ」、つまり。亜流とか「下」扱いして馬鹿にするな、と反発する――「サブsub」の元の意味は、「下に」ですね。しかしメジャーがあるからこそ、「サブ」のジャンルがはっきりしてきて、それなりに盛り上がるんですよ。それで、存続できちゃうわけよ。その線引きがないと、今「ヘタうま」って言われてるジャンル成立しにくいと思う。人間って、“みんなが見たいもの”があるからこそ、見たくない領域、見せてはいけない領域ができて、そこに強く惹かれる人たちが出てくる。

2019.4.15 投稿|