根本敬X仲正昌樹X菩提寺伸人トークイベント第三弾

投稿日:2019年08月09日


cameraworks by Takewaki

司会:では、後半始めたいと思います。前半をざっくりまとめますと、64年に長井勝一氏によって創刊された『ガロ』は、白土三平氏の赤目プロが編集作業を担っていたということです。ですから当然思想的背景があったことでしょう。時代の経過とともに来るものを拒まず去るもの追わずといった創立者の寛容さで、やりたいことを表現する方向に向かった。意識されていたことは思想よりむしろ新しいものを、世の中に輩出していくという話でした。それにおいて、仲正先生からは、漫画に求められるのは大多数にとって娯楽性なので、あらかじめある美的なモデルに、収まってるものの方が楽に読める。そこに購買層がつく。だから、政治性や思想色が濃い感じでは読者はつかない。でも、『ガロ』がおもしろいところは、そういう美的、プラトンで言うイデアなのか分かりませんが、美のモデルとなるものがそもそもなかったり、そういう尺度ではまったく測り切れないようなところの漫画を『ガロ』は出していて、それが、大出版社にはならないけれども、小さいながらもある一定層の支持を得ながら存続しているという現象がおもしろい、という話でした。ではなぜそういう現象が起こるのかという考察が、後半仲正先生の話からありました。その『ガロ』に81年現れたのが、根本さんです。後半は、特に、根本さんの作品についてさらに深くお話をうかがえればと思います。

そこで気になるキャラクター村田藤吉ついて伺います。この人は、なんていうのかすごく人からやられるっていうか、いじめられるっていうか、一見不遇な人です。力は常に抜け、変化もなくそのまま存在しているキャラクターがいます。根本さんご自身は、村田藤吉に共感しているのか、なにか考えがあってこういうキャラクターを描き続けていたのか。なにかがあるのでしょうか。

根本:単純に言って、自分が書きたい世界を描く上で、村田がいて佐吉がいると、だいたい、その中間のいろんな中途半端な人間いると。それだけで……出てくる。

司会:いじめ役みたいなものとやられ側とその中間諸々と言う感じでしょうか。

根本:大ざっぱに言うとね。

あと、どっちでもいいやってなんにもしない人とかね。

司会:そこがきれいに線引きされてるわけでもなくって。先ほど少し話が出ましたが、高橋悠治演奏でジェフスキーの『不屈の民』のジャケ画を以前お願いしました。高橋悠治の『不屈の民』は、回転するように繰り返し演奏し続けるんですね。変奏曲ですから。どんどん音が間引きされ、なくなってゆく。最初弾かれた残音というか、耳が記憶する音と今度弾かれている音が重なってメロディーが立ち現れる。自分の耳のなかで現われる音楽ですから、自分の存在も同時に感じる。そのイメージと、打たれても打たれても(消されても消されても)存在する村田藤吉っていうキャラクターが面白いと思い、それで村田藤吉で『不屈の民』のジャケ画をお願いすることになりました。村田藤吉のことをキャラクターとしておもしろいから描いてらっしゃるのでしょうけれども、例えば、村田藤吉みたいな人がいたとしたら、それは好きなタイプなのか、ただイラつかせるだけのタイプなのか?

根本:両方なんでしょうね。

菩提寺:「両方」、善悪を簡単には区分できないことがあるように。

村田藤吉は常に受け身で、臆病で、権威に弱く何事にも迎合しやすいが、我慢強く、繊細なところがあって他人への気遣いもある、そして全く怒らない。自分がなくなるようなことがあっても。また、受動攻撃的なところも本人にはない。そういうキャラが、いつも周りを刺激したり、何かを起こさせる伏線となっているのかもしれません。

根本:いたら利用するでしょうね。いいように。もしか、お金とか持ってたらね。

司会:そういう、どこにでもいそうな、人になびいて、受け身であり続ける人っていうのが村田藤吉だと思います。先日、女優の手塚理美さんから連絡があって『沈黙-サイレンス』観たかって聞かれたんです。映画の。篠田ではなくスコセッシの方の『沈黙』なんですけれども。遠藤周作原作の話ですが、その中に、キチジローっていうのが出てきます。『沈黙』は隠れキリシタンの話で、宣教師が、どういうふうに改宗っていうか、転んでしまったかっていう経緯が描かれています。キチジローはかなり重要な役どころの村人です。彼はキリシタンですが、踏み絵を踏めと言われると毎回踏む。いとも簡単に裏切り、聖母に唾も吐きかける。自分が信仰している神ですら裏切る。その裏切りの赦し乞うため宣教師に告解を求める。この告解を通し次第に宣教師と信頼関係を構築していく。ここはもう崩れない関係だと確信したところで、やっぱり裏切る。そこに躊躇は見られない。長いものには即座に巻かれ、何でも手放す。保身のために家族も手放し、家族は火あぶりになって処刑されています。こずかれて、叩かれて、抵抗することもなく「すいません、すいません」と言って裏切る。そういうキャラクターです。極端に人が良い藤吉とは逆の、狡猾さが見え隠れする悪人タイプですけれども、私の中では重なるキャラクターです。

『沈黙』では遂に宣教師も改宗するに至り、今度は幕府からキリシタンを取り締まる側の役を任命され遂行していくわけです。生存者のほとんどがキリスト教を放棄したなか、裏切り者キチジローは何度も捨てながらも生きながらえて、最後までキリスト教徒であったかもしれない人物です。

スコセッシ監督も以前『最後の誘惑』でキリスト教団体から激しく抗議されました。『沈黙』で棺に収められた宣教師の手のなかに、村人からもらった十字架のお守りが握られているという原作にはない最後の場面は、キリスト教団体へのある種の対策ではないだろうか、というようなことをキチジローを演じた窪塚洋介氏が記者会見で語っています。この場面を大抵の日本人は、お守りを渡した村人と宣教師の人との関係性で観ると思いますが、欧米人は宗教との関係性で観るのではないでしょうか?窪塚氏の指摘はそこにあるのだと思いました。

前のイベントの話の中で、攻撃をする人じゃなくて、受け身の人に、実は攻撃をする人以上のある強さがあるんじゃないかという話に及びました。

とくに意識されているわけではないと思いますが、藤吉は一連の作品において繰り返し登場するキャラクターでもあるし、なにか伝えようというものがあるとしたら、このキャラクターを通して何を伝えようとされていたのでしょう。

根本:ただ役柄っていうね。こういう、極端な人たちが登場するんで。登場人物が幸せになるような漫画とか読みたいわけじゃないんだよね。

司会:幸せになるような漫画を読みたいわけじゃない。

根本:読みたいわけじゃないとみんな思うんで。

司会:ああ、出てくる登場人物が。先ほどの仲正先生の話の逆ですね。8割方が予定調和的なハッピーエンドを望んでるという話の。

菩提寺:読者、作品を受容する側の話でもメジャーがあってマイナーが生じるとは限らないと思います。『生きる』に入っていた不幸があっても大変努力して立ちなおる。ようやく良くなったと思ったらスーと消えてタイムスリップしてまた大変だった昔にもどってしまう。それを繰り返すという話がありましたが、それと似た様なTVドラマを僕は子供の時、おそらく昭和40年代に観た記憶があります。確か民放の昼ドラでした。ドラマも回を重ねるにつれエスカレートしていた。なんかそういうドラマ観た記憶はありせんか?

根本:観てたんですよね。そういうものを。

菩提寺:やはりそういうものの影響ですか。僕も子供の時観ていておもしろいなあと思っていました。当時の大衆がアイロニーを意識して観ていたわけじゃないと思いますが、同じ局の昼ドラのタイトルが、かわる度に自然に不幸を繰り返す頻度や強度がエスカレートしていって、最後は奇妙な位激しくなっていた。そうなるまで何作か制作されたのだから人気があったのだと思います。立前は、困難があっても、いじめられても邪魔されても努力と頑張りで困難を乗り越えて立身する。その後また困難が起っても再び頑張り、、、が繰り返していくというストーリーなので受容されやすかったのだと思います。

根本:記憶にないけど、『キャバレー』という本の中で、「エリツィンがカスピ海に滅ぶ」ってやつで、村田家族の飼ってるペットが、犬から始まってて、亀とか金魚ってどんどんどんどん抹殺されていくんですけどね。でも、どんどん殺される動物のスケールが小さくなってくる。

菩提寺:ここで根本さん自身が書かれた幸福菩薩の後書きを見てみませんか。さっき言った、『花ひらく家庭天国』とか、『固い絆のブルース』は文脈のある内容でそれはそれでおもしろいと思いますが、その後に発表されたこれは僕からするとノイズミュージックという感じ。

根本:主に自動販売機の絵ですね。けっこうまた、『ガロ』は『ガロ』で『ガロ』なりに精巧な『ガロ』の漫画で描かなきゃってなるんです。

菩提寺:ちょっと長くなるかもしれんけど、根本さんの書かれたこの後書きは、全部読まないとバランスが崩れてしまうので全文読みます。

「小学生の頃の自分はよくウンチ、ゲロ、オシッコ、ナイゾー、オチンチンの炸裂する下品な漫画を描いていたが、退屈な授業時間を凌ぐ時のソレからは何故か傑作が多かったような気がする。担任は有難くも自分の「ナイショク」を黙殺していた。教育熱心とされてる担任だったが自分は組で唯一その熱心からは除外されていたので、自分の好きなことだけしていればよかった。普通の子ならそこで悲観したり教師を恨むところだが、自分は進んでそれに甘んじ趣味の世界に没頭していたワケだ。とはいえ趣味はあくまでも趣味であり決して漫画家などになるつもりはなかった。自分としては投手として、セなら広島東洋カープ、パなら近鉄バファローズへの入団を希望していた。

 それでいて作文なんかで「将来の希望」の類を書かされると必ず「平凡な会社員。ただ生活して行ければヨイ」などと、今時の小学生ならともかく、当時としては随分ヒネた事を書いたりした。いわゆる「子供らしさ」に対してはもっぱらニヒルに構え、それを自己主張していた。

 今にして思えばその辺のところが担任に除外視された要因だったのだろう。

 前置きが長くなってしまった。さて、本書であるが、この「幸福菩薩」に収録した漫画は「ガロ」や「パンチ」の村田藤吉シリーズとはやや質が異なる。何が異なるか、かいつまんで云うと、村田シリーズは自分の中の「大人」の部分が主導権を握って描いているのに対し、「幸福菩薩」シリーズは「子供」の部分が握っているのである。だから村田シリーズでは「こうすればウケるのではないか」と、ついつい計算が働いてしまうところ、この「幸福菩薩」の方は何も考えずひたすらやりたい放題に、つまりあの小学校時代と殆んど同じノリで描いたモノなのだ。だからまァその意味では自分にとって「純文学」のようなモノなのである。

 その中でも最も純度の高いのが「新人を消せ!」とゆうヤツで、オリジナルは小学校四年の時に描いた。本書のモノは大きくなってから劇画パニック誌上で焼き直したモノにオリジナルのコピーを貼りつけてミックスしたモノである。

 ところでこの「純文学」の、嫌な言葉だが「原点」ともいうべき「新人を消せ!」は次のような出来事に触発されて描いた。

 それはある日の放課後の事だった。その日自分は裏庭の掃除当番でダラダラとゴミを掃いていた。すると突然、とても愛らしい飢えたノラ犬がまぎれ込んで来て、あれよという間にウス汚い猫を獲えると、バラバラに引き裂き、居あわせた各学年の幸運な児童約三十名の目の前でおいしそうに食べてみせたのだった。

 みんなひとつひとつの段階毎に「あ、足がとれた」「あ、腸を食べた」などと口々に描写した。ノラ犬が内臓を殆んど食べつくして頭にとりかかったあたりで、いつの時代どこにも居る感心な児童が用務員のジジイを連れてきて、このショーは幕を閉じたのだった。犬は校外に追っ払われ、バラバラになった猫は用務員がほうきとちり取りで掃除して焼却炉で焼いた。

 以上であるが、この出来事が有っての「新人を消せ!」であり、又、この出来事は作品集の随所に影を落としているように思える。」

という文章です。

司会:これはほんとうにあったことなんですよね?

根本:ほんとですね。嘘ついてもしょうがない。

2019.8.9 投稿|