根本敬×仲正昌樹×菩提寺伸人トークイベント第五弾

投稿日:2020年04月18日
cameraworks by Takewaki

菩提寺:都築さんの文章ではプログレシヴロックは高尚なもの、権威主義的なものでクラシック、ジャズから影響を受けていて、手が効き、複雑な楽曲で云々。一方でパンクというのは、虐げられた持たざる者の衝動があり、単純さ­、純粋さがあり、技巧はなくてもロックたる所以、ロックの根源、魂を表現している云々。そしてヘタうまは、そのようなパンクにあたる、通じるみたいな話でした。視覚的な事で比較するとわかりやすいと思うのでレコードジャケットで両者を考えると、昔プログレのレコードジャケットデザインについて、三浦じゅんさんはTVで、プログレのジャケは「わけのわからないへんてこりんなものが多い」というような話をされていました。僕も個人的には大抵のプログレのジャケは冗談もしくは衒学的なところもある悪趣味だと思っています。一種の。よくヨーロッパの蚤の市で売っている悪趣味なシノワズリーみたいな感じ。キングクリムゾンのジャケットも適当に好い加減に作られたものと思うようにしています。ところが一方でパンクのジャケは教養のあるデザイナーがデザインとしてちゃんと作ったものが多い。ピストルズのジェイミー・リードのジャケットしかり、クラッシュやラモーンズのファーストもそうですし、けっこうかっちりデザインされていてグラフィックとしてもしっかりしている。ロゴもかっこよかったり。文脈があるしっかりしたプロの仕事。オシャレである場合も多い。

根本:プログレは大げさなところが良いんです。……。あれ、日本の宣伝担当してた人たちが、……一生懸命イメージふくらませて邦題を考えていたりしてる。……、それが当時も、又、50年後の今振り返っても大きかったですね。「狂気」とか「危機」とか…。帯に「海洋地形学の物語」とかバーンと。

菩提寺:確かに、イギーポップRaw Powerの「淫力魔人」やエリックドルフィーOutward Boundの「惑星」 、ザッパのCBSソニーの頃とかに変な邦題があり、原盤買うようにしていた僕も帯につられて日本盤買ったりしてました。そういう意味ではプログレは名作ぞろいで、ノイ1の「電子美学」、2の「宇宙絵画」、クラスターZuckerzeitの「電子夢幻」とかはまるで言語新作のような雰囲気だし、クラフトワークThe Man Machineの「人間解体」は根本さんのこのジャケ画「命ばらばら」に通じる感じですね。

また当時分類しにくい奇妙なロックはみんなプログレと言っていたみたいです。ギターが居なくて、ブルースっぽくない、シンセ使ってるとか、曲がみえないとか。帯の短文というか紹介文にも奇妙な、いかがわしいことがいろいろと書いてあった。

photo by m.bodaiji

ところでパンクの元型、根源はチャック・ベリー、パブロックとか、NYドールズ、ストゥージーズ、MC5、ガレージロック、ヴェルヴェッツ、とか、さらにそれ以降のピーター・アイヴァス、ジョナサン・リッチマンとかと言われていたのだけれど、今ではしっかり時代考証されていて、行川氏の書籍など見てもブルースぽくない70年代ジャーマン・ロック(プログレと言われる)の影響も大きく、ノイやカンとも言われている。そしてそれらはさらにパンク後のニューウェーブにも大きな影響を与えていると言われています。だから、さっき言った、ロックやパンクの起源、根源がどうのこうのという話、ほとんどあてにならない。混交しちゃって、時系列ですら前後して影響しあっているから。

cameraworks by Takewaki

そういう事もあって根本さんにこれをお願いしたんですよね。キングクリムゾンの『ディシプリン』のレコードジャケット画。フリップは難しそうなことを言いたくてディシプリンのアルバムをつくったとは僕は思っていないのですが、発表当時は結果的に難しい内容になって、70年代電化マイルスのリアルタイムの評価の時と同様に日本では批判的な評論が多かった。

司会:でも、私はロバート・フリップの他のことはともかく、グルジェフについては、冗談でなくまじめなのではと思って。それはピーター・ブルックの『注目すべき人々との出会い』を見てですが、グルジェフがトレーニングで集中力を高めたり覚醒させたりすることと、フリップの音に集中する緊張感みたいなものが通じている印象を受けました。それで、例えば、根本さんの作品も、冗談で描いてるっていうより、まじめに笑いにしている感じを持ちます。さっきの話にちょっと戻りますが、やっぱり生命だとか死ぬことだとか食べたり排泄行為も循環のなかに在るという感じでしょうか。

菩提寺:キングクリムゾンに関しては、例えば、基本的に英国人中心のロックバンドだけれども、一般的に英国のプログレと分類されるバンドのメンバーは、中流階級出身者がパンクロックより多い。キリスト教の教会でオルガン習って、和声の教育受けてとか。クリムゾンの周りもそんな感じですが、そこに捻りが入っていて、そこと混交しているケルト文化の方に影響を受けたり、その他にも薄暗いヨーロッパ文化の辺縁や、いかがわしいものに魅かれるという意識は元々持っていたりして、ストラヴィンスキー、ラヴェル、バルトーク等からヨーロッパのビートを探していた。それでもって意識はしていなくても当時の文化人類学の影響を受けたりもして、ジェイミー・ミューア等とインプロヴィゼーションをやっているうちに、いわゆる宗教体験、神秘的体験などを感じてフリップはさらにグルジェフとかに向かったのではないでしょうか。そう言えばフリップ&イーノの頃に経済学者のE.F.シューマッハから影響を受けたと言っていたと記憶しています。イーノからミニマル、現代音楽にも接し、当時ニューヨーク・ロック(パンク)が出た後、ロバート・フリップはニューヨークに移り住んだ。アンディ・ウォーホルのファクトリーにいた人物が司会をやっていた地下ケーブルテレビ「TVパーティー」に、都築さんの文章にも出てきたグラフティ初期の人達とかバスキアとか、Pファンクのジョージ・クリントンとか、ナード顔のアートリンゼイのいるDNA、あとナード、ナーズというところが「労働者階級のストレートなロック」というイメージからはずれている。ジャンル、黒人音楽、白人音楽関係なく混ざりあいながら、セッションしていた。フリップはNY滞在中に、ドイツでハルモニアとセッションした後のイーノに声をかけられ、77年ベルリンのハンザスタジオでデヴィッド・ボウイのヒーローズのレコーディングに参加した。あと、ジャンクなバイオリニストのウェディ・スティディング(スーサイドも出していたレッドスターレーベルからLPを出している)とセッションしている。…ダムドとも80年代にレコーディングしている。…等々。このような背景から『ディシプリン』は出てきた。だから、単純にグルジェフだけで片付くはずがない。混交なんですよ。芸術に純粋なものなんてあるのかと思う。ニューヨークだから特に混ざりあったというのがあるのかもしれないけれども僕としては80年代の日本の薄暗い裏の文化は、そういうような雰囲気、空気感が日本にも伝わってきたためか、もしくは同時多発的に日本でも少し出てきたのか、70年代の半ば位から、さっき言ったように映画とかいろんなメディアでも、前の世代に対して疑問の声が、『祭りの準備』、88年には松本俊夫、大和屋の『ドグタマグラ』とかいろいろ出てきたこともあって変化が起こってきたんだと思います。

 ところでロバート・フリップの素晴らしい業績の一つにDGM LIVEがあると僕は思っています。裁判を経てフリップがキングクリムゾンなどの音源の権利を得て、大量のライブ音源などを比較的安価で配信している。これで僕のクリムゾンブートレグを探す時間と資金は、全く必要なくなりました。元メンバーにも年金のように適切にお金が届くシステムとなっているようです。元々はフランクザッパが海賊盤を自らリミックスして発売したのが、このようなやり方の最初だと思います。以前何かの音楽雑誌で批判的にDGM、特にフリップは金儲け主義、拝金主義だみたいなこと書かれていましたが、その批判僕にはさっぱり意味がわかりません。確かに商売はしていると思いますが。商売するのは食べていくことにおいて当たり前のことなので。嫌なら買わなければよいだけ。昔は珍しいレコードなどの音源を多く持っているだけで蘊蓄が成り立つ時代もあったけれども、今は質にこだわらなければ安易に音源を手に入れることができるので、再生機材も含めどう聴くかということだと思います。ということで「スナッキーで踊ろう」にもどりました。

仲正:とんがってるんですね。でも、とんがってるものって、漫画であろうと、いわゆる芸術作品であろうと、だんだんつまらなくなります。作ってる人が意識的にとんがって、要するに、自分はなんか破壊してやんないといけないみたいな感じになると、すごくつまんなくなる。体制ぶち壊すには自分は強いインパクト与えてやらない、と力んでくると、やってる人はおもしろいかもしれないけど、左翼運動と同じようになってきて、そうでない人間にとってはだんだんシラケてくる。

司会:狙ってるっていう意味ですか?

仲正:さっきのスナッキーのなんか、プロの三味線の人があの声出してるって言われても、あれ。そうなのって気がする。そういう先入観なしに、何の気なしに耳にしていると、ド素人が調子ぱずれの声出してるみたいにも聞こえる。

根本:基本は民謡教室ですけども、

仲正:いわゆる強烈な声じゃないでしょう。

司会:じゃあ、何ですか?

根本:ユーチューブでちょこちょこって。

(「スナッキーで踊ろう」YouTube)

菩提寺:でも、まあ、変わってますよね。レコードという媒体でポップスとしてやるのは。

仲正:そういうこと。レコード意識して、この声出してるって思うとものすごく不自然な感じがする。適当に出してる素っ頓狂な声を、うまくアレンジして作品化したと思うと、ああこういうのもありかなと思うんだけど。

菩提寺:それは、偶然もあるし、周りにもこれはおもしろいと思って制作に関与した人がいるかもしれない。いや実際にはいなかったかもしれない。やっぱりいろんな偶然が重なったのでは。結局はスナッキーも今どう聴くかということだと思います。

* 注釈

 90年代にNHKの番組「ナイトジャーナル(大月隆寛司会)」で「謎の歌謡曲スナーキーで踊ろう誕生秘話」が特集された。その番組中のインタビューで制作した理由を問われ、当時既に演歌の大御所の作曲家であった船村徹氏は「これは奈落の果て、鍾乳洞の奥からの声、断末魔の叫び、地獄に堕ちて行くサウンド。決まったものをぶち壊してやりたい。破壊、打ち壊していって一つのものを創りたかったから」、レコード会社の元担当プロデューサー小川氏は「昭和43年につくった。東大の学園紛争、学生運動に影響された。会議でなんだこれはと言われた。今までのものを破壊したかった。」などと話している。

* 注釈

 輪島裕介著『創られた「日本の心」神話』(光文社新書)で、「橋本淳はGSブームが衰退したのは専属ディレクターや作家たちが結託して質の悪いGSを量産してわざとリスナーを飽きさせたからだ、とまで述べています。」と引用し「船村徹作《スナッキーで踊ろう》のような専属作家による「GSもどき」が、現在カルト化して一部の好事家に珍重されているのは皮肉です。」と輪島氏は書いている。

 右も左もなんだかわからないような話になっている。

cameraworks by Takewaki

司会:今、仲正先生のお話でおもしろいなあって思ったのは、例えば、なにかやろうとかなにかを伝えようと思って、都築さん風に言うと、突き上げる衝動や何かから、つくり出されたものは、おもしろいと思います。でもさっき先生がおっしゃった「とんがってる」というのは、前衛だとか今までになかったようなものを指しているわけではありません。例えば、本当にパワフルなもの、何年たっても何十年たってもおもしろいものはおもしろいものとして残っています。パゾリーニの映画は今でもおもしろいし、力を感じます。「とんがっている」はそのような作品を指しているのではなく、そういうとんがったものを狙っている、奇をてらい狙って作ったものっていうのは、結局は狙っているだけだから、その時期が過ぎると飽きてしまう、そういうことをおしゃっているのではないですか?

菩提寺:凝ったものは狙った通りには事が進まない事が多いので、狙ったって変に凝ったものは作れないと僕は思います。「スナッキーで踊ろう」も狙いが外れ大衆から離れたことによって名盤になった。もしくは大衆に受け入れられないものに仕上がって「幻の名盤」になった。

仲正:そういうことです。とんがってるものっていうのはね、頑強で包括的な「体制」を想定して、それに「穴」開けてやろうという二項対立的な思考で頑張っているわけでしょう。

司会:カウンターみたいな?

仲正:そう、いわゆるカウンターですね。都築さんは、サブカルをバカにするなとアピールしているように見えるけど、僕はバカにされていいと思います。だって、カウンターじゃないんだから。カウンターじゃなくて、「サブ」・カルチャーて言ってるんだから。「カウンター」っていうのは、物凄く強烈な「メインストリーム」っていう前提で、それに対抗しようとして作ってくっていうことじゃない。「サブ」って、言葉からしてむしろ、「その下」に入っていくというイメージでしょ。

司会:メインストリームにいるわけじゃないけれども、べつに対抗してるわけでもない、という。

仲正:対抗してるわけじゃない。たんに下です。だから、みずっぽいもの、オタマジャクシの話に無理やり戻すようだけど、「無意識」の領域に通じていますよ。厳密に言うと、〈subconscious〉は「無意識 the unconscious」ではなくて、「潜在意識」ですけど、意識の表面に出て来ないところに潜り込んでいく。他人様はどうか知りませんけど、潜って行きますよということなんじゃないかと思うのね。カウンターカルチャーは、他人様を意識してとんがってるってと思うんだけれど、ヘタうま系の人っていうのは、そうじゃないでしょ。都築さんの本でもっとも違和感覚えたのは、一番覚えたのは、蛯子さんがいかにもカウンターカルチャーの人みたいな感じで書いてたでしょう。

司会:ああ、そうだったかなあ。サブカルでなくカウンターとして書かれてましたか? 

仲正:蛯子さんについて書いてある所のちょっと前から読むと、「ヘタうまには、社会の風潮を揶揄したり、政府や権威をバカにする過激さがある。そこがヘタうまといわゆるアウトサイダー・アートとの違いかもしれない」と。アウトサイダー・アートの捉え方自体が、そもそも違うんじゃないかなと思うんだけど、ここでの本題ではないのでまあいいとして、「蛯子能収などは、まさしくもどかしいほどの怒りや焦りが作品の中に込められている作家です」と。「彼はもともとグラフィックデザイナー志望でありながら、希望の職業に就けず、職場での理不尽ないじめへの怒りや生活に対する不安が鬱積した結果、それを作品に叩きつけることで漫画家として開花しました。/絵を描くとしたら普通は濃密な画面を描こうとして頑張ることの方が多いはずですが、蛯子能収は、綿密に考えるよりも衝動的に、感情の赴くままに短時間で描き切ろうとします。しかし、そうして出来上がった彼の作品はコマ一枚を抜き出して大きく引き延ばしても、非常にかっこいい。本人はぜんぜんそんなことを考えて描いてないでしょうけど、作品としていい画面になっています」(161頁)。本人が考えていないのに、よくこういう持ち上げ方できるなあ、という感じですよね。「過去に破天荒なことをやっていた美術運動は、『具体』にせよ、『反芸術』にせよ、基本的には美術教育に対する明確なアンチ・テーゼとして存在しました。つまり、教育は受けていて、いろいろな知識を持ってる人たちが、その文脈の中で反抗的なことを敢えてやっていたわけです」「しかし、ヘタうまで初めてそれは完全にひっくり返った。別に知識があるわけでもない、教育も受けてない人たちが、おもしろい作品をつくりはじめたのです」(162頁)というんです。ちゃんと美術教育を受けた人が、「カウンター」意識でやっていたのではない、という指摘はいいですが、こういうふうまとめると、なんか、かえって、ヘタうまの人こそ、真のカウンターカルチャーの担い手だって言ってるように聞こえちゃう。

菩提寺:確かにそうですね。でも一方では169ページ『技術とは二番目にたいせつなものである』のところで、デュシャンの「泉」のことを、「何も知らずにあれを見た人なら「便器じゃん、意味わかんない」と思うのは当たり前です。しかし、何か他に好きな美術作品があって、、、、楽しくなってきた頃に見れば、「なるほど、これは便器だけど、美術作品として提示される理由があるんだな」と理解できる。」と書かれています。ただし「先に知識、技術から入るのではなくストレートに感じて」という内容の文章内で書かれている事ですが。最初の方で現代美術否定をしているけれども、後になって,このように肯定的な文章も書かれているのでポストモダン的というか、あえて両義的に書かれて間ができるようにしているのかなと僕は読みました。

仲正:美術評論家の卵だったら、こういう捉え方したがると思うんですよ。根本さんみたいな作品こそ、ナマの無意識を暴き出す、真のアヴァンギャルドだとかね。これこそ、「物」をめぐるラカンの理論を具現しているみたいな、感じのことを書くと思います。そんな感じのことを書いた方が認められやすいと思うのでしょう。理屈を考えることを商売にしている人はそういうことを考えます。私も仕事として何か書かないといけないとなると、先ずはその手の文章を思い浮かべます。

菩提寺:それはわかりますよ。仲正先生も「アンチオイディプス」についての本出されていますので。例えばドゥルーズ・ガタリあたりは、反精神医学、精神分析を批判しつつも反精神医学的、かつ力動的な物言い(E.ブロイラーとは関係なく)も使って統合失調症、精神分裂病、スキゾこそ真に素晴らしいみたいなことをふわっと安易に書いていますが、この疾患(疾患的である精神障がい)で苦しんでいる、苦労している方は実際に大勢いますから。

仲正:いや、先ほど言ったのは、そんなイデオロギー的な対立をめぐる話ではないですよ。評論家も商売です。評論家は評論家ぽい文章書かないと成立しない。ただ、作っている人や作品は、評論通りに見えることはあまりない。評論家も作家も、観客もそれを承知で、「評論」を楽しむのなら別に問題ありません。無理に、特定の作品、作家に、単一の「評論」を押し付けようとする人たちがいると、窮屈になります。いくら商売でも、他人に不快感を与えるな。単にそういう話。

司会:私は、この文章、最初にざっと読んだときに、あれって思ったんですけれども、それはコンセプチュアルなものだとか、コンセプトそのものへの批判から始まって、最後の方になってくると、デュシャンの「泉」が出てきて、結局その「泉」っていうのを見るのは知識というか、概念みたいなものが抜け落ちていたら、それは作品としてみることはまったくできないというようなことが書いてあるので、この文章そのものがなんかこう。

仲正:矛盾してるんですよ。

司会:だからポストモダン的なのかな、と思って。

仲正:ひょっとしたら、自分で矛盾してるってわかって書いてるかもしれないね。

司会:わざとこういうふうに書いてるのでは、と思ったんです。

仲正:図式的なアート対反アートっていうのが矛盾してるってわかってながら、自分でわざとそういうふうに書いてる可能性はゼロじゃないと思います。「評論」ってそういうもんだから。私がここでしゃべってることだって、そういう性質のものでしょう。矛盾してるとわかっても、しゃべっている内に、しっくりくる言い方を見つけられるかもしれないと思って、しゃべり続ける。

司会:あとちょっとこっちの本、「人生解毒波止場」の話をしたいんですけど、さっき村田藤吉とか佐吉っていう、どちら側も言わば、作家として投影してるのかみたいな話が出た時、両方ともってお話があったと思うんですが、満州の遺跡巡りっていう話の時に、村田藤吉らしき人物が出てきて、これは根本さんなんですか?

根本:一応、村田の名前が、まだ97年ぐらいだから、それの方が通りがいいじゃないですか。

2020.4.18 投稿|