陰翳礼讃

投稿日:2021年10月08日

〈私は、われわれが既に失いつつある陰翳の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂の檐を深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。―――試しに電燈を消してみることだ。〉       「陰翳礼讃」 谷崎潤一郎 

 

この随筆が発表されてから約90年を経て、感染症のパンデミックとなり、夜通し人工光に照らされていた東京が暗くなった。不確かな行く末を案じ、暗雲に覆われる気分に安穏の明りを灯すのは、燦々たる光線というよりは、蝋燭の火の揺らぎのような明りが好ましい。それは谷崎が、〈光線を跳ね返すような趣のある〉白さの西洋紙ではなく、〈柔かい初雪の面のように、ふっくらと光線を中へ吸い取る〉和紙に〈物静かで、しっとりしている〉と感じたのと同様かもしれない。

 

日が落ちてパークハイアット東京の「梢」のテーブルに灯される蝋燭の揺らぎは、野草の繊維を武骨に残す和紙に吸い取られる。都心の街をはるか遠くまで見下ろす頑強な大ガラスに覆われた高い天井の広い空間。蝋燭の柔らかな光は小さく広がり、光の明暗によって大空間は遮られ、テーブルを囲む者たちだけの小さな空間を作りだす。窓からは人工光で縁取られる街を下方に、上方に月光に浮かぶ雲、時には雷光や雨。高層ビルから見下ろす東京と自然が織りなす二つの風景に出会う。都心にあって刻々と変化する自然を身近な環境として、意識することができる。逆に言えば、意識できるように電燈の光量が抑えられ、その高さ、位置に至る隅々にまで配慮が行き届いている。どうすればどうなるか考え尽くされているから、ふとした折りでもない限り、こちらが意識することもない。訊けば、インテリアの専門家が電燈の色調や光量だけでなく蝋燭や囲う和紙の選定を行ったのち、現場のスタッフが実際に人の着席や動き、配膳の具合などをフィードバックし最終的に決めているのだと応えられた。

この空間にふさわしい物だけが、ここにある。「ここには金の装飾もシャンデリアもない」、と教えてくれたのはこのホテルを築き、育てるに尽力されたホテルの一員だった。「もてなしとは心でなく、頭(智慧)でするもの」と語ったのは、京都の老舗旅館の女将だったが、その言葉の意味するところがわかる気がする。建築設計界の栄誉とされるプリツカー賞の創立者が、ハイアットホテルの創立者であることに易く納得ができるのも同じ所以である。

谷崎は金が闇で光を放つ美について言及しているが、「梢」の漆器に金の蒔絵を見たことはない。根来塗りかと訊ねると、山中塗と答えてくださった朱色の刷毛跡が特徴的な丸盆。打てば響く回答は、料理の説明だけにとどまらない。木肌がしっくり収まる塗りの碗。たっぷりと重みのある美濃焼の志野や織部。夏の冷菓には打ち出しのアルミニウムの匙。豪奢な装いとは離れた民芸の手触りがある素朴な器に、都会的で透明感ある深みを持つ食事が提供される。Obscure Recordsなどambient music的な音楽が、灯の揺らめきと料理の間を何も妨げることなく繋いでいる。野趣が過ぎず、凝らし過ぎることもなく、京都でも大阪でもない東京らしい「梢」の日本料理。料理もインテリアもサービスも、何においても、そのバランスの妙に感心するような折に触れると、充足感を持つことができる。バランスと一言でいうのは容易いが、味、空間、人の三つを揃えることは、そう容易いことでもないだろう。

〈美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にあると考える。〉

 

地上階へとエレベーターを待つ41階のピークラウンジも、9月の20時前には小さな明かりが点在するだけ。天窓ガラスの銀色のフレームに反射した月光が室内の空気を微かに青白くする。あたかも外気にさらされている錯覚を持つ。施された竹林が夜の森となり、発光虫が息づいているかのようだ。音楽が静かに森に広がっている。今は都庁となった目前の広場でMiles Davisが足をもたつかせながら、指と目で指示を出していた野外ライブに行ったのは、81年の10月、私が高校生だった頃のことだ。Miles Davisは前屈みで、もつれるように歩きながらも、耳を集中させているようだった。バンドのメンバーは彼の弱々しいトランペットに耳をそばだて、彼の一挙手一投足に全神経を傾けていた。音は高層ビル群にリバーブした。私は耳の奥であの時の残響を探し始める。感染症はこの先も暗い影を落とすかもしれない。排除はあきらめ、息を潜め、耳を澄まし、目を凝らしながら観察することにしようと思う。

〈その闇に沈潜し、その中に自ずからなる美を発見する。〉

MUSIC FOR FILMS EGM1(Promo LP)

菩提寺光世

*〈 〉内 谷崎潤一郎「陰翳礼讃」より引用

*関連ブログ「ロックミュージック考2 追記」 菩提寺伸人

 

 

 

2021.10.8 投稿|