根本敬×仲正昌樹×菩提寺伸人トークイベント第六弾

投稿日:2020年07月03日
cameraworks by Takewaki

根本:一応、村田の名前が、まだ97年ぐらいだから、それの方が通りがいいじゃないですか。

菩提寺:これまた、なかなかおもしろい漫画で、先ほどの『Let’s go幸福菩薩』の後書きにも通じる一貫性のある流れがあるように思えます。自責的になって凹んでいる主人公に中国人のガイドが誰も気にしてないから気にしなくていいと思うよと言ってくれるという落ちが多義的な感じがします。この漫画から始まって、新世界のクリムトそうふう画伯のことが描かれてて、絵の感じとか、あとは、画伯がどういう行動して最後失踪したかが書かれている。画伯のパートナーと称する女性の方のことも描かれていて、純粋と言えば純粋といえるかもしれないが、だからといって権威主義がないかというと当然だけどある。単純に善悪で、この人は悪、この人は善という話にはなっていない。画風とか、後から出てきた絵とか含めても、そういう事が総合されてみえてくるような。「カラマーゾフの兄弟」みたいに。そういうのが根本さんの目を通してそのまま全部描かれてるからおもしろいと思いました。両義性がある。次に統合失調症を疑わせる女性のことが描かれていますが、そこを読んでいて、よく表現されているなと思いました。根本さんの描かれている、書かれている表現が、例えば精神病理学、症候学でいうところの、こういう症状、こういう状態とはっきり言えるくらい正確に表現されている。ケースレポートのように。元々精神医学の専門的な知識をお持ちで書かれたわけではないと思いますが、そうだとすれば観察し記述する能力が高いかただと思いました。そういう意味では内容は僕が接する世界では珍しいことではなく、よくみる典型的なケースでもあり、僕としては、むしろ根本さんの観察し記述する能力の方に感心しました。

ところでそうふう画伯が自分の作品だと言っていたこの絵なんかはプログレのレコードジャケットみたいですね。

根本:そうですよねえ。

司会:カラマーゾフの兄弟はそれぞれの兄弟がそれぞれ全く異なる濃いキャラクターの持ち主ですが、簡単にそれぞれを善悪や、何が正しいか美しいかどうかでは括ることは出来ません。前に出てきたブニュエルの話と同じように、醜く卑しいと思われた者に相手を思う清らかな感情があったり、清廉潔白で信念を貫く行動がはた迷惑な結果を招いたりします。カラマーゾフの長兄ミーチャは典型的な激昂型の破天荒な人物で迷惑極まりないのですが、人に対する清らかで無垢な思いやりを垣間みせる。

一筋縄で純粋か不純か、善か悪かと線引きは出来ない。それが根本作品にも表れているという話ですね。 

菩提寺:こういうなんか、ちょっと上品そうな雰囲気でもエレガントではないところとかがプログレのジャケの感じかな。根本さんは漫画を描かれていない時に、映像や活字媒体で活動されていた時期があったと思いますが。電気菩薩や因果という概念も言われていて、根本さんいう因果は難しいのですが、確か、以前根本敬展「樹海」のチラシで、電化マイルス・デイビスと関係した文章、どなたかが書かれたものが引用されていて、単純には分類できない、収められない、訳の分からない状態という、それがまさに根本さんの樹海だと思わされるようなことが書かれていました。(注1)僕もあの時代のマイルスって、ファンクでもない、ジャズでもない、ロックでもない、なんだかわけがわからないから逆にどれでも当てはまるとも言える。ピート・コージーとか、なんかわけのわからないジミヘンの原風景みたいなギターがいたり、個人的には既製の、定型のジャンル分けを拒んでいる様な非常におもしろい音楽ではないかと思っています。当時電化マイルスを批判した人達も実際に「こんなのジャズじゃない」「ロックじゃない」と書いていたと記憶しています。

この本でも、因果というところに、黒寿司という女性が出てきて、ジミヘンとの関係が書いてあって、そこの横に、マイルスのビッチェズブリューが出ていて、ジャケ画の元祖みたいなのが既に描かれている。そこに左吉と藤吉がいる。こういうコラージュの形で。マイルスとジミヘンはニアミスしてレコーディングしなかったという噂がありますが、彼らの頭の中では関係があったのでしょう。各作品にどこかに前兆みたいのがあって、次の作品の中にそれが展開されたり、根本さんのなかで、関連して想起したことを重層的に重ねていったり、表現したりする感じありますか?

注1: 以下、根本敬展「樹海」2017年12月13日—24日 MIZUMA ART GALLERYフライヤー《樹海》を読み解くためのヒント:根本敬より抜粋

「この音楽には、音楽的技術ではなく音の質感のせいでゴミのように聴こえる仕掛けがしてあるのだ。脳にわいた蛆虫を思わせる宇宙の汚水のように、または、ましな言い方をするとすれば、宇宙の瓦礫のように聞こえるということだ…。だから、こうして汚らしく散乱したものをひとつの生き方として受け止めない限り、この音楽を心の底から好きにはなれないのだ。」

(菊池修 編集「ファンク」より、マイルス・デイビス「ビッチェズ・ブリュー」の論考を引用)

追記:ファンカデリックのマゴットブレインを想起させる文章である

根本:そういうふうに指摘さればあるかもしれないですね。描いてる方は意識してない。

菩提寺:計画的には考えないで描いてるけど、後から言われてみればそういうのもあるのかもしれないとか。

根本:そんなに考えないで。

菩提寺:今、根本作品についての想起、記憶痕跡を語ろうとしているのですが、精神分析では、フロイトについてヤスパースが指摘したような「かの如き了解」が多く、こういう話をする時に僕としては面白みに欠けると思うので、今回は現代の精神医学と関係が強い神経科学、脳科学の話をしていこうと思います。神経科学では、手のつけやすい視覚の研究からはじまって、早くは1990年代以降アメリカのDecade of the Brainという国家プロジェクトが始まり、「意識」に関する論文も受領されるようになり、今では意識、無意識的な認知に関係することで記憶は重要なものとされていて、学習、記憶のメカニズムは学際的な分子・細胞認知科学へと展開して盛んに研究されています。

記憶、想起、記憶痕跡にはD.ヘブが昔(1949年)に発表したヘッブ則、シナプス可塑性、セルアセンブリ仮説が関係しているといわれています。シナプス可塑性と記憶の関係はE.カンデルによって実証されていましたが、近年セルアセンブリ仮説も光遺伝学を使った利根川さんらの基礎研究で実証されました。

経験し学習して記憶(記銘)して想起という流れですが、異なる記憶は異なる(神経)細胞集成体で符号化されているというのがセルアセンブリ仮説です。静止状態にあるニューロンにある情報が入ると特定のニューロンの集団が活動する。それとは別の情報が入る場合は別のニューロン集団が活動するということです。ニューロンは活動後に静止状態にもどるが細胞集成体は維持され、記憶痕跡として残る。信号のやり取りをしているとシナプスの結合が増強され信号の伝達効率がよくなる。次になんらかのきっかけで特定の細胞集成体に属するニューロンが再び活動するとその神経細胞集成体で符号化している事柄を想起する。そして不安定化し再固定化を繰り返していくようです。例えば根本さんがソウル、ファンクと黒寿司、寿司桶を記憶していると、悠治さんからマイルスを感じて、高橋悠治からマイルスそして黒寿司から寿司桶を想起というのは理解できることとなるわけです。繰り返しているとシナプス強度があがる。

一見大多数の他者からみると関係なくても、音楽好きや根本ファン、根本作品と接する事が多い人達からみるとなんとなくわかると。そこは心の理論やミラーニューロン(システム)も関係するかな。

ところでドゥルーズ・ガダリの器官なき身体はコタール症候群から来ていると指摘する学者がいるようですが、ドゥルーズ自身もそのようなことを言っていたのでしょうか?もしそうだとするとなんだろうなと思います。 コタールが症例報告したのは1800年代で観察し記述されました。ぼくも大学病院に勤務している時に病棟で何例もみましたのでそんなに珍しい症候群ではなく、現代の薬物療法や特に身体療法による生物学的な加療に反応し症状は消退していました。 ドゥルーズは「器官なき身体」をアルトーからも引いているようだけれど、確かに統合失調症やアルコール性精神障がいなどでも生じることはあるとは言われていますが、本来はスキゾの一次妄想ではなく、コタール症候群は重症うつ病(感情障がい)で、否定妄想などとともに巨大妄想が生じる症例であるところが病理学として肝心で面白いところなので、そういう意味でも「アンチオイディプス(1972年出版)」ってなんだろうなと思うわけです。対照的に、根本さんが描かれている、書いている事例は全く衒学的ではないし、ロマン主義的なところ、変に美化する、神格化するようなところはなくリアリティーがあります。

根本:後から考えると、そういうのいっぱいありますよね。やってる時はあまりもう考えないで。

仲正:コタール症候群のことは、少なくとも『アンティ・オイディプス』には出てこないです。菩提寺さんは、ドゥルーズなどの現代思想の論客の精神分析系の言葉は全て、精神医学に対するアンチの意味を持っていると思っているようですが、それは考えすぎです。ガタリはそういう意図を持っていたでしょうが、彼の著作全てが精神医学に関係しているわけではないし、ましてや、ドゥルーズとの共著では、別の主題、特に芸術や政治、経済、哲学との関連がより重要になります。著作の中で精神医学なテーマに言及しているからといって、それが全体的なテーマだと考える必要はないでしょう。「器官なき身体」は、別に何か特定の症例を分析するための概念でないことは確かです。直接的には劇作家はアルトーに由来する概念なんだから、演劇的な概念と取るべきでしょう。

 私の理解では、演劇的な極限概念としての「器官なき身体」というのは、身体の各パーツが、幼児の頃から覚え込まされた通常の動きから解き放たれ、外部からの刺激に対してオープンに反応するようになる状態です。その時、身体がどう反応するかに関心があるわけです。何かの精神医学的な原因で、そうなるかどうか、それが当人にとって幸福かどうか、健全かどうかは、あまり重要ではないでしょう。だって、身体性を未分化状態にしてみようという前衛的な試みなんだから。仮にガタリが、「器官なき身体」を反精神医学の概念にしようとしていたとしても、芸術論の文脈では、そんなことに拘ることはないでしょう。大抵の芸術作品には、精神医学的なコメントを付けることができますが、そういうコメントをつけたからといって、作品の価値が変わるわけではありません。作品を分析するための道具にすぎません。

では、身体の各器官の動きをリセット――無論、本当のリセットではなくて、それに近付こうとする試みですよ――するとどうなるか、ドゥルーズたちはそんなに具体的なことは言っていませんが、私のイメージでは、私が再三言っている、おたまじゃくし的な感じ、ぐにゃぐにゃになるような感じがします。アルトーや彼の影響を受けたThe Living Theater系のパフォーマンスは、人によっては逆に身体の強度を高めているように取るかもしれませんが、私には身体をぐにゃぐにゃにして、おたまじゃくしのようにするプロセスに見えます。

そういう観点から根本さんの作品を見直すと、「寿司」がポイントになるでしょう。先ほど菩提寺さんが話題にした『命名』(二〇〇四)に、『黒寿司』(一九九七)のモチーフらしきものが入り込んでくるところがあるんですが、そこに、今のお話しに関係しそうな面白い記述があるので、読んでみましょう。いろんなキャラがカオス的に入り乱れた絵の右側に、「正しいエロとは 悪いエロとは 果たして精子はゲロか それにしても先生は寿司屋の前に一時、歯科医をしていたことあるんですがな」とあります。左上に、「その女のおまんこの匂いの臭いのなんのって、2~3日くらい手を洗ってもニオイがとれなかった」とあります。いずれも吹き出しには入っていないし、ト書き、背景説明でもない。登場人物の声か作者の声かも分からない。現代文芸批評の高尚な用語で言うと、フロベールが得意とする自由間接話法みたいですね。寿司で、いろんなネタを指でこねて、ごはんにくっつけます。伝統的な寿司のネタは、大体決まっているみたいですけど、新作もある。ちらし寿司や稲荷寿司のような形態もある。指の動きと出来上がったものの形状から、性的なものを連想することができる。テレビ、映画、漫画で、寿司を食べている口をクローズアップして、性的なものを匂わせる手法あるでしょう。それに寿司は匂う。僕は実は、寿司の匂い、すごい嫌なんです。今はかなり慣れた気がするけど、子供の頃は、寿司の匂いがひどく不快でした。家族がちらし寿司を作ったり、食べたりしている時、匂いがするのがすごく嫌でした。今でも、匂いがきつい寿司だと、小さい頃の不快感を思い出すことがあります。今は自分で買って食べる時もありますが、そんなに積極的に食べたいわけではありません。他に食べたいものがなかったら、ということです。

司会: マルコ・フェレーリの「最後の晩餐」みたいで、下品なんだか高尚を極めた芸術なのか分からない話ですね。

仲正:生臭い。性的連想抜きでも、寿司自体が酢とネタた生臭が混じった妙な匂いがするでしょ。生理的に嫌なんです。

司会:お寿司が?

仲正:そう。だって、口に入れる時、べちょって感じがするでしょう。寿司の構造からしてべちょって感じにならざるを得ない。同じご飯を握ったものであるおにぎりに比べると、わざと隙間を多くして、口に入った瞬間、べたっと崩れるようにしている。そこに酢を塗り込んで、ぬるぬるさせると共に、一気に崩れるのを若干妨げている。その上に、魚とかをあまり密着させないようにのせてるでしょ。上品に食べなかったら、どうしても妙な音が出る。

司会:一口で放り込みますが。

仲正:一口で放り込める? 私はなかなか一口で放り込めないんだけど。生臭いもの口の中に入れるわけでしょう。酢の匂い、酢って生命にとって重要だけど、きついでしょうと、魚とかの生々しさ。人間の生臭い部分を凝縮している感じがするんですよ。「口」っていろんな役割果たす器官でしょう。しゃべる器官であるし、食べる器官であるし、キスしたりするし、もっと露骨な性交に使う場合もあるし、物を咥えたり、相手への攻撃として、あるいはその攻撃に愛着のようなものを込めて噛みつくこともある。それは別々の機能に分化しているけれど、本当にきれいに分化しているのか、実は機能的・刺激的に入り混じっている部分が結構あるのではないか。精神分析でおなじみの話ですが、別に精神分析でなくても、事実としてそういうことあるでしょう。幼児の時は未分化ですね。例えば、幼児が、おしゃぶりみたいなものを、むにゃむにゃむにゃてやってる。食べる感覚と性的な感覚が混合していて、どっちとも言えない。場合によっては、匂いに対する志向も、混ざってるでしょう。

cameraworks by Takewaki

司会:精神分析っぽい話ですね。

菩提寺:先ほどの仲正先生のお話について言うと、前にどこかで話したと思いますがデリダが精神分析について語る時は、あまり衒学的な感じはなく、デリダの考え方が率直に反映されているような気がします。

 フロイトは元々神経学者でニューロンの提唱者の一人とも言われています。ホルムヘルツ、ダーウィン等からも影響を受け、19世紀的な心理生物学的発想から精神分析を起こしたと言われています。ですが僕としては、現代に個体についてリビドー、備給とか実証、反証されないエネルギーの話や、固着、虚勢コンプレックスとか、後の反復強迫などについてガチガチに言われたら実際どんなもんかなという感じです。だけど文学的にはわからないでもないです。

 一方で神経科学では実際に脳内報酬系という回路があることがわかっています。これは性行動、食行動など種の保存、生存のための本能的行動を快感によって継続していく神経系(器官系)で、神経伝達物質としてドパミン、オピオイドなどが関与しています。これが快感の追求だけを目的にはたらくようになると依存などの問題が生じてくることがあります。これはさっき話した専門用語であるところの学習とも関係しています。前に話したガモウユウジ先生のギャンブル障害に関する著作も報酬系や側坐核、ドパミン、セロトニン、fMRI、行動経済学、前頭前野、意思決定などの新しい知見に基づいて書かれていました。近年は精神科でもブレイン・マシン・インターフェイス、ディープラーニングとニューロフィードバック、機械学習が臨床と関係して研究され強迫性障がい、ADHDなどの治療において成果が報告されています。それとビックデーターと高速演算により囲碁でAIが世界にチャンピオンに勝ったこともよく話題にあがりました。ニューラルネットワークもニューロンを数理化したモデルなので当然、先ほどのヘッブ則と関係しています。今や精神医学は学際的な社会脳研究とも関係しています。進化生物学も関係してマキャベリー的知性仮説とか、その上で利他性とか。Schadenfreudeとか。この辺とかは根本作品にも通じる感じではないでしょうか。だから面白いんですよ僕にとって根本作品は。ブニュエルなどの映画と同様に。

後の仲正先生のお話に戻ると、確かに味覚に関係する嗅覚や体性感覚と報酬系の関連も言われています。

仲正:ふと個人的なことを思い出したのですが、幼稚園の時、おしゃぶりがなかなか口から離せなかった。それで、父親が怒って、みっともない、赤ん坊か、低能かと罵られたり、ひどい時には叩かれた覚えがある。なんで、父親あんな怒ったのかなあ、と。先ほどからの話と続けて考えると、おしゃぶりって、何か猥褻な雰囲気を持っているのかもしれません、大人の視点でみると。だって、われわれがおしゃぶりをくわえたら、まちがいなく猥褻な感じするでしょう。子供だと、赤ん坊と大して違わないという前提で考えるから、大したことないような気がするんだけど。赤ん坊の食べ物に限らず、愛着するものすべてをしゃぶろうとする行為は、かなり淫らでしょう。元祖のフロイトを始め、精神分析の諸流派は、そこに注目して理論を組み建てているわけだし。しゃぶる、噛みつくというのは、原初的な猥褻な欲望の現われかもしれない。寿司、というか、お寿司屋さんで食べる寿司というのは、目の前で他人の手で握られた、生のものを、自分の手でつかんで、口に入れて、くちゃくちゃ言わせながら食べるわけでしょう。原初的な欲望がこの行為の中に凝縮されてるような感じがする。

司会:では、なぜ寿司だったんですか?

根本:いろんなものが触ってる。握るじゃない。情報量が高いですね。

司会:料理人が素手で。

仲正:人様が触ってる。

司会:直接触ったものをそのまま頂く。

仲正:普通、料理ってものは、料理人が直接触ったっているところを見せないようにするじゃないですか。寿司だけでしょ。一般的に知られてる日本料理の中で、あれだけ例外なんですよ。

司会:不衛生ということですか。

仲正:不衛生っていうか、たいてい、ぶさいくなおっさんが握ってるわけでね。指に脂がついてそうな、なんか汚らしいおじさん。それを込みで作っている。高級な寿司店ほど、客にその場面を見せつけるわけでしょ。それって考えようによっては、すごく猥褻な行為でしょう。村田藤吉の世界で、汚らしいおじさん同士が身体的に妙なくっつき方してるけど、寿司というのも、おじさんの脂と魚の脂とコメと酢が混じった妙なものが、を口の中に入れてるんです。まさに幼児願望の現われ。

司会:それはどうか分かりませんが。

根本:寿司は、やっぱり二十歳ぐらいのジャニーズみたいなやつが握った寿司とかアンジェリーナ・ジョリーが握った寿司とか食いたくないでしょう。

どうせなら都築さんみたいな人が握ってほしいな。

菩提寺:近所のお寿司さんのご主人が頭きれいに剃っていて都築さんに似ています。

仲正:食べるものって、いろんな原始的なことが出てきてると思います。

司会:そうですね。最後になにか質問あればよろしくお願いします。これだけは伝えておきたいこととか、なんかここがわからなかったこととか、『ガロ』でそれはちょっと誤解してるんじゃないかって思われることとか、なにかありませんか?

仲正:この絵ね、これいかにも。

司会:黒寿司?

仲正:いかにもおじさんが握ってる。このおじさんの手にいろんなものがつながってる。このおじさんは、手は当然洗ってるんだろうけど、洗う前にいろんなものを触ってるはず。

司会:それを食べるんですよね。

仲正:それを食べてんの。我々は。それを高級だと言って。

司会:お金を払って食べさせられるとするとすごいことかも。

仲正:すごいことをやってるんですよ。実際にね。

司会:何か原始的な行為に思えますね。現実は、寿司を握ってる主人の方が主なんですね。従、召使になってる方が客。言葉通りですね。

根本:神保町に、短髪のお姉さんたちがやってる寿司屋があるんですよ。あれいいですよ、お神輿担いでそうで。

司会:洒落てますね。短髪のおばさんたちに握られる寿司。

仲正:根本さんの作品、特にこの『命名』や『黒寿司』には人間の腸のようなものが出てくるんだけど、寿司との関連で考えると、腸についてもいろいろ考えさせられます。人間の腸だと思ってみるから、こういう絵はきもいけれど、動物の腸だったら、平気で食べてるもんね。人間の腸がこういう風に露出していると思うときもい、というか、汚らしい感じがする。人間の形をしているものの腸として描かれると、自分自身の体の内側を連想してしまうんでしょうね。私たちに体の中には、未消化の食べ物とか排泄物、老廃物、そしてエイリアンみたいに私たちの意志とは関係なく、動いているいろんな臓器がある。そういうものがあることは普通、考えないようにしている。マーサ・ヌスバウムというアメリカの倫理学者・政治哲学者は、正義/不正義の基礎になる私たちの不快感は、体から外に排出されるものに対する反応と結び付いているということを指摘しています。その前提で考えると、「汚い」ものって、見たくないので私たちの内側にしっかり隠されていて、いったん外に出たら、私たちと無縁のもの、穢れたものとして遠ざけたいもの、ということになります。根本さんの作品って、そういうものを描き続けている感じがします。菩提寺さんたちのようにそういう作品が好きな人がいるということは、人間には内なる汚物を見たいという欲求があるということかもしれません。

菩提寺:根本さんの作品には内臓も良く出てきて、性行為と生理的な表現が多い。さらにキメラみたいな奇妙な生物や機械状の変な生物の画も多いですね。しかも毒があるというか。今、デビルマンの人面相群や昔のTV特撮『宇宙猿人ゴリ』の交通事故怪獣(クルマニクラス)とか天才怪獣ノーマンとかを思い出しました。「「生命」それ自体のグロテスクさに強引に目を向けさせるような作品」というガロ曼荼羅からの話があり、根本さん自身が書かれた幸福菩薩の後書きの話にもありましたが、実際に動物の行動はヒューマニズムの想像を越えているので事実を知ると驚く様な行動、生態そして多様性があります。例として、この本(『進化とはなんだろうか』:長谷川眞理子)から引用します。「Acarophenaxというダニの仲間では、母親のおなかの中で卵が幼虫にかえります。そんな幼虫たちは、何を食べて大きくなるのでしょう?なんと、母親のからだを餌とするのです。彼らは母親を内部から食い尽して外に出てくるので、子どもが外界に出てくるころには、母親は文字通りもぬけの殻になっています。しかも、このダニの子どもたちは、母親の体内で兄弟姉妹どおしで交尾をすませてから出てくるので、実際に外に出てくるのは雌だけです。雄は母親のおなかの中にいるうちに、精子を姉妹に渡してしまったのですから、もうそれ以上生きていく必要はなく、生まれ出る前に死んでしまうのです。どうして、こんな奇妙な暮らしをしている生き物がいるのでしょう?ほんとうに、生き物には、人間の想像を越えた多様性があります。しかし、生き物には、もう一つ、非常に不思議な特徴があります。それは、それぞれの生き物の形や行動が、その生き物の住んでいる環境や暮らし方に、非常にうまく合うようにできていることです。

 たとえば、アフリカのタンガニーカ湖に住んでいる魚の中には、他の魚のうろこだけを失敬して食べているような魚がいます。そして、この魚には、口が左側に曲がっているものと、右側にまがっているものとがあり、左側に曲がっている個体は、他の魚に右側から接近して食べますが、右側に曲がっている個体は、左側から接近してうろこを食べるのです。」どうですか。このような感じを踏まえて、根本作品をみると以外とすんなり入ってきませんか。

仲正 デビルマンに出てくる「デーモン」は、原作の設定だと、人類以前の霊長類で、他の生物を吸収して、変形する能力を持っているという設定です。それを続けている内に、お互いにどこに共通点があるのか分からない化け物になった。明らかに複数の生命体が合体しているような変な形をしているのが多いし、取り込んだ人間の顔が自分の身体の表面に出ているジンメンというデーモンもいます。私の言っている「器官なき身体」とは逆の方向のようですが、いろんなものが入り込んできて、混沌としてくるというイメージもありかと思います。

『宇宙猿人ゴリ』は、途中で『宇宙猿人ゴリ対スペクトルマン』を経て、最終的に『スペクトルマン』にタイトルが代わる、つまり悪役からヒーローに主役が替わる異例のヒーロー特撮でした。最初の主役かものゴリは、猿人型の宇宙人ですが、自分の惑星から追放され、その「恨み」を抱えたまま地球にやってきた、という今の特撮やアニメでは普通ですが、当時としては結構斬新な設定でした。ルサンチマンを抱えた悪役が主人公なんて、子供に見せるものじゃないでしょう。怪獣も、公害とそれによる基因する奇形をモチーフにしたものが多かったです。スペクトルマン自身、宇宙人というより、宇宙人によって作られたサイボーグで、自分の身体を母星からコントロールされ、変身するのにいちいち許可がいる。ある意味、みんな身体的に不自由です。「受苦」している。

『デビルマン』も『宇宙猿人ゴリ』も、公害とか疎外とか左翼的な思想を背景にしていたと思いますが、あまり子供に見せられない、結構身体の残酷な面を描いていたような気がします。深く歪んでいて、絶えず痛みを生み出しているような側面。『妖怪人間ベム』とかも、身体描写が残酷でしたね。自分も、ひょっとすると、そういう身体になるかもしれないと連想させる。一時期子供向けの特撮、アニメは残虐な身体性表現はあまり露骨にならないようにし、残酷なやつは、深夜のBSに回す傾向があったと思いますが、近年、『進撃の巨人』とか、残虐系のものが地上波の子供も見る時間帯に復帰しているのです。『進撃の巨人』はどちらと言うと、ヘタうまでしょう。キャラクターの描き方があまりきれいじゃない。楳図かずおさん風の絵を強引にヒーローものに持ち込んだ感じがする。

根本さんのは一貫して残酷で、気持ち悪い。リアルに気持ち悪い。贅肉の肥大化によって、おたまじゃくしになるかもしれないんだから。

photo by m.bodaiji

司会:最初の話、美しいモデルの話からはじまって、そこに戻って一貫する話になったんじゃないかと思います。根本作品には、こちらの勝手な思い込みを根底から覆し、思い込みから離れた観察や注視に基づいた描写に、はっとさせられることがある。生きるとか死ぬとか特に食べるとか排泄するとかいう行為、原始的な行為みたいなものが根本作品に現れてるっていうことですね。

仲正:ふつうなら、隠したいところでしょう。しつこいけど、私は昔太ってたせいで、ここの肉ってほんとに嫌なんだ。自分のは見たくないけど、けっこうスマートそうな人が、前半身裸になった時、このへんの肉がほんのちょっとたれてるのが目に入ると、つい見ちゃう。本当に筋肉質な体にはあまり興味がわかない。村田みたいに露骨にぶよぶよなお腹だと、排泄物みたいな感じがして、全然みたくない――テレビに出てくる裸芸人とか、デブを売りにしているタレントは基本的にあまりみたくないし、デブの方が好感が持てるという人の感覚理解できません。自分については見たくないものでも、他人に投映して、観察したくなるのかもしれません。

司会:変なこと気になることありますよね。

仲正:変なことっていうか、隠したいことには、本当は強い関心があるんですよ。

菩提寺:日本の場合、臨床医をしている精神分析家の先生達は専門の学会と大抵の精神科医が入っている総合的な精神医学会にもだいたい入っているかと思います。よって少数派だけれども精神分析は、精神医学の一分野と認識されることもあるといってよいのではないでしょうか。精神分析諸派については誤解を恐れず、大雑把に、端的にいうと、フロイト以降フロイトがやらなかった、整理しなかった、やり残した事柄などに対し、発生発達から自我心理学派が、児童分析からクラインとその学派、さらにクラインの批判的展開としての対象関係論の学派(フロイトの心理生物学的な側面を重視しない)などがあり、丁度「アンチオイディプス」が読まれた頃70年代から80年代当時は、60年代終わりから神経症と分裂症の間からパーソナリティ障がいに展開していった境界例概念に関する論文が、対象関係論の先生達ばかりでなく精神分析諸派を中心に、多く発表されていたと思います。日本とは対照的に昔の米国精神医学会では精神分析が主流派でしたが、研究のため、反精神医学運動に対するためにも、妥当な診断をつけていくということでセントルイス学派などが動き、分析側からも賛同者を得て操作的診断基準DSMⅢ(1980年)が導入され、NPDとBPDが採用されていました。アーブラハム、フェアバーンの考えからの影響も得て、M.クラインは小児の精神分析、スキゾの臨床からフロイトのエディプス期以前に原始的防衛機制を導き出し、精神病レベルの分析の病理として投影同一化、splitting(分裂)、理想化、否認などがより関係する妄想分裂ポジション、躁的防衛が関係する抑うつポジションいうモデルを提示、発達ではそれに沿う内容で部分対象関係から全体対象関係へ移行し統合されるという考えをたてた。原始的防衛機制を説明するにあたって、アンナ・フロイトが封印していたタナトスについても語った。クライン、マーラーから影響を受け、カーンバーグはBPOの病理を展開した。その他自己心理学派、独立派などあります。先ほど仲正先生からおしゃぶりの話がありましたが、フロイトが残していった自体愛、自己愛についても議論がありました。この様に臨床症例を軸とする精神分析も歴史があり学問なので、通常は諸派に各モデルがあり、意味内容に多少の差はあっても基本的な専門用語、共通の概念があるので、分析の中だけでなく、学問的には精神医学のなかでも議論はできると思います。以前の会でも話ましたがW.ビオンにはクラインから影響を受け臨床に沿った集団の病理についての仕事があります。フロイトの「集団心理学と自我の分析」とも関係しています。内容は難しいですが、ビオン自身が書いているように言葉の定義などにこだわり、出来るだけ正確に伝達できるよう書かれているためか、ちゃんと読む事ができると思いますので、フロイトが破棄した「科学心理学草稿」からの影響も受けているといわれていて本来なら人文科学の方にとっても興味深い内容ではないでしょうか。今のところバイオで社会的な集団の病理を語るのは難しいと思うので。

「アンチオイディプス」では「欲望機械は、数々の総合の体制の中で作動しているものであるが、、、ジャック・モノーは分子生物学の観点から、、、顕微鏡的なサイバネティクスの観点から、こうした総合の独自な性格を明確に説明したのである。」書いてあって、ジャック・モノーの「偶然と必然(1970年)」からラクトースオペロンの話の続きでアロステリック制御のところの部分引用が出てきます。大きくいうとセントラルドグマや、(分子群から)細胞、そこから組織、そこから器官、そこから器官系という生物学の基本を踏まえた上での分子生物学初期の話なのですが、ドゥルーズはその中の「サイバネティックス」「分子工学」「進化」という言葉、単語に過剰に反応したのか、部分引用した後に以下のような文で帰結している。「つまり、もろもろの分裂症細胞、分裂分子、それらの連鎖や隠語が存在する。ここにはまさに分裂症の生物学があり、分子生物学はそれ自身、分裂症的なのである(ミクロ物理学と同じように)。ところが、逆に、分裂症、そして分裂症理論も、生物学的であり、生物文化的なのである。これは分子的秩序のもろもろ機械状接続や、これらの接続の再配分つまり、器官なき身体という巨大分子上の強度地図の中への、これらの接続の配分や、大きな集合を形成し選択する統計学的な集積を相手にするからである。」とプログレのレコードの帯、邦題にも負けない位の多くの言語新作的な言葉と、まとまりのない内容の文ですが、このような衒学的で晦渋な文のところをあえて全部捨てて、無理矢理、極めて好意的に解釈すると、先ほど神経系から現代のニューラルネットワーク、深層学習や社会脳の話までしましたが、その中には当然、生化学、分子生物学、遺伝子工学、計算神経科学の知見も入っているので、ドゥルーズがこういう現代の学際的な状況をふわっと予想していたのだとすると鼻が効く人であったといえるかもしれませんが。

例えば「ドグラマグラ」は(大衆)文学なので、僕もいくら精神医学に関する表現が頓珍漢でもどうこう言うつもりは全くありません。「アンチオイディプス」の場合はSFでもなく、人文科学の書とされているようなので気になりました。W.ライヒの「衝動的性格」「性格分析」は後のBPDに関する先駆的な仕事として評価されていますが、今日の脳科学でガルの骨相学は科学ではないとされているように、発症後(おそらく)のライヒのオルゴン療法やクラウドバスターの妥当性は議論にもなりません。ガルは脳機能局在論(ブローカなどの)の祖といわれることもなくはないですが、彼の「器官学」には全く論理性はなく、でたらめと言われています。

以前の会で信國さんがファッション、モードについてセントマーチンで、「リサーチ」がなければ「あなたは天才かそれとも…..ですか?」という講義を受講したという話が出ていました。

僕自身は「エディプスコンプレックス」という概念に関心はありません。

ところで根本さんは最近なにか関心のあることとか、今後やってみたいこととかありますか? 興味を持っている活動とか?

根本:早くMAGMAのジャケット仕上げなきゃ。

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菩提寺:楽しみにしています。よろしくお願いします。MAGMAのUDUWDU2ndプレスの奇妙な絵柄の辛気くさい緑色のレコードジャケットのジャケ画を根本さんに注文しています。これも良い題材じゃないかなと思ってお願いしました。マグマはその前身のuniveria zektから76年の今回ジャケ画をお願いしているウドゥヴドゥまでが僕のなかでは大事で、この頃のマグマはやり過ぎ、力み過ぎ、入れこみ過ぎ、何かにかぶれているか、はまっているか、思い込んでいるのか、思い込もうとしているのか、執拗で手数、音数が多過ぎる、息継ぎが少ない、常に汗をかいている。その結果、超人的な演奏になっていて聴いていると凄みを感じつつも思わず笑いがこみ上げてくるという感じです。リーダーのchristian vanderはコルトレーンのファンと公言していますが、サン・ラ&アーケストラ、スライ&ファミリーストーン、パーラメントのチョコレートシティなどからも影響を受けているのではないかと僕は思っています。この頃はマグマもパーラメントやサン・ラのように自分達は宇宙人(コバイア星人)だと言っていました。ただしB.コリンズやG.クリントンみたいに演奏中にニヤニヤすることはなく、いつも強面で、りきみまくって、筋肉モリモリで絶叫したり吃音を出しながら歌い、変拍子でファンクしていたイメージです。初期は、リズム隊はテクニシャンでしたが、ブラス系はへたなのに奇妙な節回しで、旧ソ連の変なブラスロックに似ていました。特にこのアルバムはjanik topとvanderのインタープレイが激しく、一見、呪術的な反復にきこえても、実は全て異なっていて二度と同じ展開にならないところが気に入っています。topもメカニックマシンとか「機械」という表現を好む変人です。ドゥルーズが関係したことのあるHELDONの5thアルバムでも演奏しているし、topのソロにR.ピナスが参加しています。他のマグマのメンバーもピナスのソロに参加しています。それで根本さんは黒人音楽にも造詣が深い方だから、何かおもしろいものが出てくるのではないかと思ってお願いしました。

エルドンのリーダー、リシャール・ピナスは、リオタールのもとで学んでいて、ドゥルーズが彼のいくつかレコードに声で参加したりしていた。70年代に。曲名もドゥルーズ(・ガタリ)の用語から付けられているものがありました。しかも前身のバンドはschizoという名でした。そういえば僕がリアルタイムでエルドンを聴いていた頃からの知り合いの松谷さんの会社がピナスを呼んだ2000年代の初来日の時に、ピナスはドゥルーズの研究者からインタビューを受けていました。以前の会でYMO初期のライブについて話しましたが、その時はエルドンの音楽は、機械、道具であるはずのアナログシンセでつくったシーケンス、反復が、その機械のデリケートさ不安定さから暴走することで、人にとって予想外のシーケンスとなり、さらに各楽器の演奏者が肉体を使いそれに無理矢理あわせたことで、簡単な楽理や譜面では表現しにくいような複雑な音楽が、意思を持たない機械と人の相互作用から自動的に生成されていった例として話したと思います。

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さっき仲正先生からもドゥルーズらと芸術についての話が出ましたが、音楽、文学、演劇、映像などを含む芸術の話としてなら僕にとっても面白いと思えるところはあります。ピナスもキングクリムゾンやジミヘンが好きなようで、ドゥルーズが参加しているアルバムに「K.C.に捧ぐ」という曲があります。1974年にクリムゾンが一旦解散し、81年のディシプリンで再結成するまで期間エルドンは活動していました。エルドンはクリムゾンのfollowerと言われていましたが、エルドンの音楽は逆にディシプリンに影響を与えたかもしれないと僕は思っています。デリダのいう散種が起って。

司会:今までにないような深くコアな根本敬談義になった気がします。

 左翼的な運動やカウンター文化の衰退後、しらけながらもその痕跡を残す70年代後半から80年代の思想的背景や芸術とのつながりも見えてきたのではないでしょうか。

菩提寺:仲正先生からみて、この糸井重里さん原作、湯村輝彦さんの『ペンギンごはん』今みるとどうですか?

仲正:根本さんの作品を基準にすると、中間的な感じがします。

司会:そうですね。まだ、美のモデルがある感じです。

仲正:こっちにはまだありますね。

司会:先生の嫌いな贅肉がないですよね。

仲正:ないですね。でも贅肉ないからって、美しいとは言えないですが。

司会:でも、理想的な形がある?

仲正:この女性の絵は、基本は、いわゆる典型的なナイスバディなんだけど、そのせいでかえって、そのナイスバディにべちょっとした部分が含まれていることがかえって強調されているような気もします。美しさを極限までもっていくと、かえって醜い面が出てくるという原理を示しているような。ナイスバディは、ある程度、ぜい肉がないと成立しないでしょう。

司会:根本作品では先生の嫌いな肉が垂れている。

仲正:肉が垂れに垂れて、もう一回オタマジャクシに戻っていく。人間の大人って、直立歩行してる存在だけど、それは意識がしっかりしてる間のことでしょう。だんだん力が抜けてくるとだんだんこんな感じになってくるでしょう。年とって来ると。子供の時は体の軸がはっきりしてないから、ふわーっとしてる。

司会:ふにゃふにゃして。

仲正:ふにゃふにゃしてるし、子供の時は特に太ってるわけでなくても、お腹がちょっと出ているし、胸の肉もふやけている。その意味で、両生類っぽい感じ、胎内の状態に近い感じが体形にも出ている。思春期から青年期にかけて、しゅーとしてくる。その一部の美のモデルに近いような印象を周囲に与えることができた人が、しゅーっとした形を維持しようとする。今、若い人が、細い体キープしようとする傾向が昔よりはるかに強いでしょう。

司会:細い体をキープしようとする傾向?

仲正:しゅーとした感じの体。

司会:前からそうじゃないですか、女性は。

仲正:そんな統計的にみてないけど、学生見てると、80年代より明らかに今の子の方が細い。昔のアイドルの写真とか映像見ると、結構太目、ぽっちゃりに見える人多いでしょ。当時はかっこいいと思えていたのに。男子も細くなることを意識してますよ。だって大学のキャンパス歩いていると、太った学生少ないですよ。やっぱりここのところがしゅーとしていること、いわゆる六角筋割れみたいなのを意識してる子多いと思う。さりげなく、お腹を見せ合ったりする子いますよ。

司会:贅肉が多い子は、隠してる?

仲正:隠してると思いますよ。太った男子が、自分の太鼓腹を披露している光景なんか見ないですよ。通常はなるべく、お腹が目立たないようにしていますよ。

80年代って、とんがることに限界が感じ始められた年代なのかもしれないという気がします。左翼思想みたいなのに疲れた。ノマドとかスキゾ・キッズのような、拘らない緩い生き方が求められるようになった。『ジャンプ』とか『マガジン』とかの少年漫画やアニメの世界ではむしろ様式美が確立していった。技術的な問題もあって、アニメは明らかに洗練されていって、スタイルのいい典型的な美男美女をきちんと描くようになったでしょう。それが、90年代以降、それとは異なる、いわゆる、『クレヨンしんちゃん』のような、ゆるふわ的なものも出て来たんではないと思います。

根本さんの作品みたいなものは、そういう流れともあんまり関係はないと思うんだけれど、人間の体のだらしない部分を強調していることだけは共通しているかな。根本さんの場合は、80年代からずっと、自分のだらしない部分というのを突き抜けて、こんなものが自分の中入ってると思ったらもう人間やってられないみたいな部分をずっと表現され続けておられるのかなと思います。主流の媒体の、逸脱した表現様式が目立ってきて、一部が根本さん的な特殊漫画家の領域とかぶってきているということではないでしょうか。

菩提寺:僕が絵がわかるわけじゃないから言いにくいのですが、ヘタうまで下手という話だけれど、根本さんは下手じゃないと僕は思います。

司会:技巧的に、と言うことですね。

菩提寺:理由は、根本さんの漫画は表現力があって、ちょっとした表情とか風景とか、細かい情報が正確というか、しっかり伝わるというか、読んでいて、見ていて、何を伝えているのかという事が、漫画であるからこそ、瞬間的にわかることが多々あった。元々は時系列もしっかりしていて全く下手という感じを僕は感じないです。それには根本さんが持つ観察力も関係しているのではないでしょうか。うまいというのを写実的っていう意味で言っているのなら、写実的じゃないだろうけど。描写として、心理描写とか全体の雰囲気とかよくわかるからいつも面白い。元々時系列をしっかりと表現できる方なので、意図的にそれを崩していった「命名」などの作品も崩していることがきれいにわかる。音楽でも出来のいいものでこういう感じを感じることがあります。確かに、ヘタうまで、異なるものとくくっちゃうのはなんか不思議な感じがして、其々かなり違うのではないかと思います。

仲正:もともと、何をもって「うまい」と言ってるのかをまず考え直した方がいいと思うのね。

菩提寺:確かに。

司会:さっきの美のモデル、原型の話ですね。

仲正:今、大ざっぱな言い方になるけど、絵画だったら、モデルがたくさんあって当たり前なんです。漫画だとね、それがそんな当たり前にまだなっていない。美しく思える登場の人物の描き方おパターンってあるんだと思う。そんなにきっちりしているとは思わないけど、『ジャンプ』『マガジン』とかの典型的な少年ヒーロー物で流通してるような描き方っていうのがあると思います。少女漫画だったら少女漫画なりに、あるんだと思います。というか、少女漫画の美しい美少女キャラって、目を大きくして星を入れるとか、本当にベタですね。萩尾望都の絵とか、私にはかえってキモく見えるものもありますが。そういうものからはみでている表現様式っていうのが、「ヘタ」っていう言葉でくくられてんだけど、「ヘタ」と「うまい」あるいは「美しい」の内実を、本当は都築さんのような評論家がちゃんと分析すべきだと思います。

司会:じゃあ、今日の話としては、強引にまとめますと。

菩提寺:最後に、フランク・ザッパもプログレと言われることも多々ありますが、サイケデリックとよく言われていますよね。でも、少なくともザッパ自身は、違法薬物摂取はしないのでサイケデリックではないと言っています。それでヒッピーは群れてつまらない戯言を言ってそれを人に押しつけている集団だから嫌いだと言っていた。そして自分や、自分達は多様性を認めるフリークアウトだと言っている。ザ・マザー・オブ・インヴェンションの1stアルバムの内ジャケにも細かい字で隙間なくぎっしりと色んなことが書かれている。ザッパのギターソロは無難にまとめることはできないかもしれないけど、個性的な音色で独自のスタイルでめちゃくちゃ巧い。ライブでもザッパがギターソロ弾き始めるとオーディエンスが集中していくのが分かる。それでいてロックとして普通に聴けそうな曲もあるのでザッパはよくバカテクといわれているけど、曲自体は技巧的ともいえて、同時にある意味稚拙ともいえるものが多い。しかし、だれにも真似できない濃さがある。例えばランピーグレイヴィ

ところでザッパをコラージュした作品がありますが、根本さんもザッパお好きですか?

根本:そういえばひとつ個人的な発見があって。三木鶏郎のボックス買ったんですけど、あの人に日本で1番ザッパ感じましたね。

photo by nemoto

司会:もっと「命名」の話をしようと思いましたが、かなり時間オーバーしてるのでこの辺で。

cameraworks by Takewaki

根本敬×仲正昌樹×菩提寺伸人(菩提寺光世 司会)

2018年12月9日

renngoDMSにて収録

2020.7.3 投稿|