生きるためのダンディズム その4 鋤田正義 part1

投稿日:2015年08月19日

小さなことの大きなこと

cameraworks by Takewaki

 

母を撮った一枚の写真から時代は動いていった。 

 

こう表現することがあながち過言ではなかろうと思う理由は、デヴィッド・ボウイの名作「Heroes」(1977年)白黒のレコードジャケット写真を知っている人が、おそらくそのレコードを持っている人の数を遥かに超えるだろうと思うからだ。
鋤田正義さんを「お迎えするのは大きなこと」とこの日を整えてくれた竹脇献に礼を言うと「鋤田さんを撮ることは僕にとっても大きなこと」とカメラマンの彼は返してくれた。
世界で広く知られる鋤田正義という名前とその仕事に対し「大きなこと」と礼を言った私だったが、彼の「大きなこと」とは、尊敬する写真家のポートレートを自分が撮れると言った個人的なむしろ「小さな」彼だけの範囲のことだった。この大きなことと小さなことのどちらがより大事なことであるのか、そんなことを考える契機をくれた。鋤田さんはそのような人だった。

 

ロンドン、青山、パリ、ボローニャ、メルボルン、そしてミラノ、ニューヨークへと続く写真展ワールドツアーのただなかであることをお知らせ下さった鋤田さんから、ボローニャ開催の理由として「ミケランジェロ・アントニオーニが生まれた所で、それが引き金になった」と耳に留めたとき、私の顔がほころんだ。エントランス入ってすぐに飾っておいたジョン・カサヴェテスのポスターに気付いて下さったと分かったからだ。カサヴェテスを飾るものがMアントニオーニと言って分からぬはずはなかろうということだったと思う。

 

予想通りに半分以上は映画の話になって、予定していた取材時間2時間は倍の4時間を優に超えた。スタートは鋤田正義さんが撮影監督を務めた寺山修司監督作品「書を捨て町へ出よう」から。寺山作品独特の東北の重さと繰り返しに対し、鋤田さんの空のモンタージュ、緑や虹色のカメラワークによって粋なテンポを与えている。そんな印象を伝えると、「出来上がってみると決して満足いくとは言えない。しかし同じことをジム・ジャームッシュに伝えたら、同じようにあれはあれで良いと」。素人の私と、高名な映画監督の感想が同じ重さで受け止められ、さらに返される会話のなかで「あれは実験映画だった。今もそう思う」と回答された。

 

「実験」の言葉がキーワードとなって、そこから先は60、70、80年代を行ったり来たり、制作シーンとその時代をこちらの質問に回答しては次から次へと案内してくださった。「仕事と好きなことの区別は僕にはなかった」と「自腹で」時間も距離も厭わず被写体を追いかけ、メディアを試し、先ずは「やってみる」鋤田さんの姿とダイナミックに動いた事象をこの紙面に書き尽くすことは到底できない。

 

「ベトナム戦争の落とし子」と表現された軍事偵察用の特殊フィルムを使って加納典明氏や鋤田さんは「ブレ写真」を作った。とんでもない色、マジックみたいな色になるというそのフィルムの作品は、舞台演出家寺山を魅惑し、だから映画は未経験にも関わらず鋤田さんに映画撮影依頼があったのだろうと当時の写真を示して下さった。70年に初めて訪れたNYは彼を大いに刺激した。「青森県のせむし男」(1967年 天井桟敷公演)、Aウォーホールのとんでもなく長いフィルム(「エンパイア」)、NYアンダーグランドフィルム(1967年 草月シネマテーク例会「アメリカの実験映画-シュールレアリスムからアンダーグランドシネマへ」)は既に草月アートセンターでも上映され知っていたが、東京にいて味わえないクリエイティブでホットな空気が当時のNYにはあったという。寺山と直接出会うことになったのは、70年NYだった。たまたま「毛皮のマリー」をオフオフブロードウェイと呼ばれるブロードウェイの下の、そのまた下に位置する小さなライブハウスで上演していた。すでに大物だった「サイコ」のAパーキンスなんかもオフオフの小屋でやっていた。
「時代はそういう時代で、僕自身は満足いかない部分はあるけど、後になっても、「書を捨て町に出よう」は実験映画なんだと思う」
「実験映画」の繰り返しの回答に、呑まれるように呑み込みながらいろいろなものが動き交わる、試行錯誤が伝わってくるようだ。
「でも最後は、エンドタイトルに文字が一切出ない」と彼が投げ、私が「あれは良い。文字以上の情報がある」と返すと、「その通り」と無言の瞳が大きく頷いた。

 

 

cameraworks by Takewaki

 

莫大な資金とスケールの大きいハリウッドの人々との出会いもあった。東宝スタジオで「MISHIMA」の撮影をしていたルーカスとコッポラの後を追って、石岡瑛子氏の案内でLAにある彼らの自宅やスタジオで撮影をした。見渡せる限りの全ての土地を所有すると同時に桁外れの借金も持っている、近づけないようなスケールの大きさを持つ彼ら。その後、メイプルソープ以外のカメラマンが撮ることを許さないことで知られていた(「MISHIMA」の音楽を手掛けた)フィリップ・グラスから、突然撮影を承諾する連絡がありLAからNYへ直行。再訪したNYで鋤田さんが望んだことは、豪華でスケールの大きいハリウッド映画ではない映画を観ることだった。
そこで3人の映画作家を紹介された。そのなかにあったのがジム・ジャームッシュやコーエン兄弟の映画だった。ジャームッシュ「ミステリートレイン」のスチールを撮ったのは、その後の4年を超える交流の後の出来事だった。NY滞在時に毎日一本ずつ映画を観ていた。黒人問題を知ったのは、悪役俳優ということしか知らなかったカサヴェテスの監督作品「アメリカの影」を通してだった。インディペンデントとアンダーグランドの論争もあり、ジャームッシュをはじめ当時のインディペンデントの若手監督からカサヴェテスは憧れの存在だった。「ミステリートレイン」の現場には世界中からボランティアの若者が集まって来ていて、夜中までバーで喧々諤々。車のタイヤの空気を抜いて、手押しの移動撮影、低予算だから結実したカメラワーク。繰り返しになるが鋤田さん自身も自腹だったお陰で、ややこしい権利関係に縛られることなく発表できた作品や仕事は多くある。
逆にデヴィッド・ボウイ「The Next Day」(2013年)の写真使用はボウイ側からの前もっての連絡は一切なく、事後承諾だったと彼は笑った。
撮る側も撮られる側も40年来に渡る長年の交流のなかで、互いにアーティストとしての仕事を認め合っている。それは言葉に表せないキャッチボールのようなやりとりで成立しているのだろうとおっしゃった。

 

「 ビジネスは別の問題だから、ちゃんとするけど。例えばTシャツなんかは専門部署を通じてやりとりしてる」と。思わず私も笑った。

 

cameraworks by Takewaki

 

「撮りたくてしょうがなかった。仕事としてじゃなくて」と、自分のアンテナが赴くままにどこまでも被写体を追い撮影する鋤田さんであったから、Pグラスが撮影を許し、ジャームッシュの「ミステリートレイン」のスチールを撮ることになり、ボウイやTレックスの誰もが知るあのショットに結実したのだろう。
言い方を変えてみるならば、彼らにとっても鋤田さんのファインダーを通し動いた何かがあったにちがいない。
鋤田さんの写真のジャケットに惹かれて「ボウイを初めて聴いた」、と伝えたボローニャの女学生がそうであったように。

 

そして私は、鋤田さんが世に注目される大きな名前の人々以上に名もない人々により大きく衝き動かされ、大事なものとして記憶のなかに留めておられる、と感じていた。名前とは全く無関係に、と言った方が正確かもしれない。

 

名もなき人々とは先述のジャームッシュの映画制作を支えた世界中から集まった若者たちであり、若き日のジャームッシュのようなカサヴェテスに憧れたインディペンデント監督達であり、ボローニャの学生であった。
そしてまた鋤田さんが入院したニュージーランドで見舞った見ず知らずの人たちや、竹脇献もそのひとりだろう。
「病気はした方が良い」そう言われたのは、目まぐるしく追われる日々を走り続けた鋤田さんが、滞在中のNZで撮影時に事故に遭い入院した時、見ず知らずの二組の見舞客があったと話された時だった。地方紙に載って事故を知り訪ねたというひと組は日本によく出張するニュージーランド人の社長夫妻、あとのひと組は現地在住の日本人女子中学生2名と教員だった。この小さな出来事は、彼の記憶の大きな出来事として留まっている。
「全く知らない人たちだったから。見ず知らずの僕を訪ね励ましてくれた」
彼は数十年以上も前のことを、つい数日前に体験したかのような”驚き”をもって聞かせて下さった。その何度も観た映画の場面を描写するような語り口に、あたかも私までもが同じ映像を観ているかのようだった。

 

今日この日の撮影をご快諾くださった鋤田さんであったが、竹脇献の仕事のどこに関心がおありなのか、そのわけを訊いた。竹脇がイングランドで生活していた時、鋤田さんはロンドンから一時間以上電車に揺られ彼のもとを訪ねた。
「彼は農作業をし、その日に収獲した野菜の写真をたった一枚だけ撮っていた。8×10のフィルムで。もし失敗したらと訊ねると、次の日また収獲できたものを撮るだけだ、と。撮るとはこういうことだ、と献さんから教わった」
当時鋤田さんは、おびただしい数のなかから一枚の写真を選ぶ仕事に埋もれ、忘れてしまいそうになっていた何かをそこにみた、イメージ(想起)したという。

 

そして、そう回答された鋤田さんを誰よりも何よりも支え、動かし続けた人は、映画少年鋤田正義とその母だろう。

 

つづく

 

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菩提寺光世|2015.08.19

2015.8.19 投稿|