Stefano Bemerと共に

投稿日:2012年08月01日

 

2012年7月28日

7月28日、私は事務所で笠井潔さんに出来上がって間もない本を贈呈した。前年の11月に開催したStefano Bemer X rengoDMSのコラボ展のアートブックだ。このアートブックは、Stefano Bemerとrengo DMSの短い紹介文が入る。このrengoDMS側の文のチェックを笠井潔さんがして下さり、全ての日本語の英訳は仲正昌樹さんが即答で引き受けて下さった。Gian Carlo Calzaさんに励まされながら、輿水進さんの写真で構成される発行部数わずか10冊の色々な意味で贅沢な本となった。どうにかStefanoの誕生日に間に合わせようとテスト版は約1ヶ月前にフィレンツェの彼の手元に到着した。これが私からStefanoへの最後の誕生日プレゼントとなった。

 

きっかけ

Stefano Bemerに初めて出会ったのは1995年。新婚旅行で訪れたフィレンツェのセレクトショップの店先で夫が目に留めた靴から始まった。即座に注文し、数分後スクーターに乗って現れたつなぎ姿の青年がStefano Bemerだった。あれこれと注文靴の話が進むにつれ、もっと話がしたいという欲求に互いが駆られてゆくのが分かった。それをすばやく察知したのは店側も同じで、逆に話を阻まれる結果となってしまった。採寸が終了次第職人はさっさと帰され、職人の連絡先を店に尋ねても教えては貰えなかった。

 

イエローページ

ならばと、インソールの刻印を瞼に焼き付け私たちは一旦ホテルに戻り、「必ず見つけ出す」と私はイエローページを繰った。電話をかけた時の昂揚は今思い出してもドキドキする。
そのように私たち夫婦とStefano Bemerは、店とは名ばかりの人ひとりがやっと入れる間口の小さな彼の工房で数時間後に再会を果たすことになった。話に夢中になった私たちは夕食の約束を交わしたさらに数時間後に、その日3度目の再会をする。彼はジャケットに亀革のベルトと揃いの靴で登場した。William Morrisの話、ヨーロッパのクラフトマンシップ、服飾と靴の伝統と自分がこれからやろうとしていることを話すStefanoの話はつきることがなく、夫の質問も止むことなく、それは旅行の最終日まで繰り返されて空港の搭乗口で私たちは別れた。

 

それから

私たちの帰国後間もなく届いたStefanoからの封書には展覧会の招待状とイエローページで作ったアート靴が印刷されたカードが入っていた。
Stefanoが自分のブランドの日本での商標登録を私に依頼してきたのが’97年。それから、当時勤務医だった夫とうなぎの寝床工房のStefano Bemerは東京とフィレンツェでそれぞれ開業を果たした。StingやDaniel Day-Lewisを顧客に持ったStefano Bemerの発展は目覚ましく業種も全く異なるけれど、私たちは共に人生を前に進めて来たように思う。’95年以降私たちが会わない年は一度もなかった。

 

7月28日に戻って

笠井さんに本をお渡しした後、夫から連絡が入った。「とにかく帰宅するように。話はそれから」乗車した中央線で先程までご一緒していた白井聡さんにお会いし、胸騒ぎが抑えられないまま私は一方的にしきりに話し続けていたと思う。
帰宅後から今までイタリアから何度か電話やメールが行き交う中で私は自分の日常から現実感を喪失してしまったような、夢とも現実とも確信が持てない日々を送っている。Leonardo Bugelliが携帯から「光世、Stefanoに最後のキスを」と言ってくれた。流石イタリア人だなと思ったことがここ数日の唯一の現実感かも知れない。
Stefanoが今の私を見たら顔を真っ赤にして叱り飛ばすだろう。私もStefanoもネオリアリスモが好きだったから。彼も私もある意味本物の労働者だから。

でも今しばらくはStefanoにも勘弁してもらいたい。しばらくは今日の仕事だけをこなしながら静かに息をしながら待っていよう。

菩提寺光世

 

 

2012.8.1 投稿|