プラトンが「国家」の中で偉大なる詩人ホメロスに対し、家具の設計者と職人に例え詩人追放論を展開する。
家具のその本質は、実相/イデア(本性の実在界)にある。職人はその家具の制作者である。制作者はイデアを顕在化する。しかし設計者は制作者が作るものをミーメーシス(イデアを再現)しているに過ぎない。偉大なる本質はイデアにあり、再現するものが偉大なのではない。
ギリシアにおける詩人は、公的な在り方をした。詩は読まれるものでなく、広場や劇場で詠われた。絶大な支持を得ていたホメロスが朗々と詠う。民衆の心を捉え、直に訴える。無批判に作用する劇場の文芸(芸術)の力を充分に理解するプラトンの、ホメロスの力量を知る故の詩人追放論であったのだと言われる。
アーレントも投げかける。物の良し悪しは単に有益性にあるだけでなく、プラトンの言葉で言えば、イデアとエイドス(形相/形式)に一致しているかどうかの標準であると。
西洋の脈々と繋がる歴史にはイデアを物差しに美の世界がある。真・善・美の尺度となる抽象的な概念の、普遍的で永遠のイデアが、私たちの外の世界に実在としてあるのだとプラトンは言う。イデアから出発し育まれた規範は、共通の真・善・美へと続く指標なのだろうか。
ならば、それぞれがそれぞれの作品(動き、音、色、空間、時間などを含む広義の)に直面した時に受けるある種の驚きや衝撃、抗することが出来ないほどに引き込まれる興奮や熱狂も、頭が冴え渡る透明な感覚もイデアに依拠するものなのか。
少なくとも私には天国と同じくらいの不確な存在のイデアより、作品が私の現実だろう。
5月には不似合いな激しい雨の夜のrengoDMS哲学塾で、私の疑問は頭の中を行ったり来たりしていた。
アンソニー・クレバリーの靴「レイジーマン」は、機能とは全く別にエイドス(形式)/美の規範を保つことを図りデザインされたものといえる。
19世紀に婦人靴の装飾から紳士靴へと転用され広まったブローグ(穴飾り)は、17世紀のスコットランドの主に湿地帯での労働靴に端を発しており、水はけや通気口として機能していたと考えられている。ブローグには縫い目に沿って線状に穴飾りが施されるものと、つま先に花状に飾られるメダリオンがあるが、ブローグの印象が強くなる程インフォーマルな用途となるのは、ブローグの由来と無関係ではないかもしれない。
既成靴の「レイジーマン」には、イミテーションブローグが施されている。
内羽根式の靴をインフォーマルからフォーマルに順に並べ挙げると、
ウイングチップのフルブローグから
ストレートチップにメダリオンを配したセミブローグ、
ストレートチップに線状の穴飾りのパンチドクオーター、
ストレートチップのオックスフォードとなる。
外羽根式より内羽根式がフォーマルとされるのは、ひもを解いても形は崩れず、型にはまった(整った)見た目を保つからであり、なかでも最もフォーマルとされるオックスフォードは、17世紀主流であったブーツに対する反発で短靴を履いたオックスフォードの学生にその名を由来すると言われている。その真偽のほどは分からないが、イデアにしろオックスフォードにしろある意味権威との結び付きのなかで形式や規範は形成されてゆくのかも知れない。
「レイジーマン」ぐうたら、怠け者を意味するこの靴は、靴ひもを解かずに靴の脱ぎ履きができる。
中央に位置する靴ひもの両側にエラスティックが施されているからである。内羽根が閉じる中央のラインとロングノーズのトゥへ落ちるメダリオンのラインは一直線を結ぶ。ロングノーズな靴の形態のバランスをとるための装飾は、もはや靴ひもとしては機能せずイミテーションのレースとして配置されている。形式を損なうことなく合理化を図ったデザインが「レイジーマン」だろう。
これに対しステファノ・ベーメルの「akindo model Ⅰ」の異なる点のひとつは、靴ひもがイミテーションでなく、靴ひも本来の機能を有しているところである。片や自らを「怠け者」と揶揄し、(既成靴では)イミテーションブローグにイミテーションのレースをかけウイットをきかせたデザインであるなら、もう一方は店主自らが店先に立ち商売する働き者の「商人」にその名は由来する。
戎居のビスポークによって誕生したこの靴は、靴の脱着が少なくない建築業界のビジネスシーンで、客を待たせることないよう素早く脱着可能とするサイドゴア。また脱着の利便性だけではなく、あらゆるビジネスシーンで履けるようにパンチドクオーターとした。さらに、出張による長距離移動が頻繁で、足が浮腫みやすい彼が足の痛みを覚えることなくフィット感を保つため、ひもを絞めたり緩めたりし羽根を調整できるように本来の靴ひもとしての機能も兼ね備える。
ある形式を損なうことなく機能性をデザインに落とし込むのは、両者に共通するものだろう。アンソニー・クレバリーの「レイジーマン」が、ある意味純粋に装飾を機能から外したのに対し、ステファノ・ベーメルの「akindo model Ⅰ」は、機能のなかに変化する場面や足の形状に対するバランスと合理性を追究した。
50年近く前に創立者によって設計されたrengoDMSのファクトリー階で、私はこれを書いている。装飾を排したモダニズム建築の社屋を大規模リニューアルしたのは、創立50周年を迎え記念した年のことだ。会社案内文でその時のリニューアルについて触れた。これを英訳して下さった仲正昌樹氏が改装をredecorateと訳され、訳とアドルノのキルケゴール論で語られる装飾との関連性を私が尋ねると「そう」と頷かれた。
書き手が思いもしなかった考察を読み手が与える。
私たちが構造から目をそらさず提供するデザイン/仕事は、異質なものと混じり合いながら展開してゆく。
特定の歴史的・地理的な指標を持っていないと自ら語り、西洋の服飾の美の規範を崩すことに躊躇しなかったコムデギャルソン川久保玲氏が使っていたと言われる2400㎝×1200㎝の机が当社にある。
私はその上でこれを書き、傍らで新しく入った所員が模型を制作している。
構造が見えるいたってシンプルなこの室内の、人の身長をはるかに越える細長の縦すべり出しの窓を開くと、5月の霧雨に濡れ気持ちよく冷えた空気が入ってきた。
akindo model Ⅰ
菩提寺光世|2013.06.05