余白のひまわり

投稿日:2014年08月30日
cameraworks by Takewaki     
 
 

どんな全体主義も嘘から始まる

「消えた画 クメール・ルージュの真実」から

 

失敗が続いている。行き先が違う電車に乗ったり、見間違えも頻発する。うっかりが半分、後は視力の衰えのせいだと思っている。かつては良いと錯覚していた視力は遠視で、今では幾つもの眼鏡を距離によって使い分けている。
だから、「絶対不純粋 東亞論壇Absolutely Impure Asia Forum」と題されたパンフレットで港千尋氏の文が、
ー 視力がよいことは、芸術の基本である。ー
から始まることに少なからずショックを受けた。
ー 優越的視力為藝術的根基。ー
知らない中国語でさらに落ち込み、
ー Superior vision is foundation of art. ー
英語の雰囲気に若干救われた。そしてなんとなく思った。
見えない、知らない、を自覚していることは、欠点を補うかもしれない。
見たい、知りたいと思うから。

 

「絶対」という言葉のおこがましさを、「不純粋」で打ち消すような 「絶対不純粋」は、今年3月台湾でおこった大群衆による抗議活動、学生による立法院占拠、太陽花学運に関するパンフレット表題だ。「 絶対」、「真理」、「純粋」、「永遠」という言葉は時として威丈高で居心地悪いが、組み合わせによってはユーモアを覗かせる。

 

でも居心地悪さを多少残すのは、ひまわりの大きさだろう。小さな種子が集まってひとつの大輪の花を成している。大輪は常に太陽に向かってまわっている。大きなものの圧倒的な強さ。私は大きなひまわりに、強制労働、マスゲーム、全体主義のイメージ(画像)をなんとなく重ねてしまう。
ひまわりは、抵抗/レジスタンスのアレゴリーとなるだろうか。

 

画像(イメージ)で抵抗/レジスタンスを証したのは、リティ・パニュ監督「消えた画 クメール・ルージュの真実」だろう。原始自然と民主主義の合体のスローガンのもと、原始に帰り自らを純化させるべく民衆を農奴として動員し、子供まで水田の泥沼へ引き摺り込んだ挙げ句の果て、任務達成と引き換えに生を抹消し、墓穴に放り込み、土のなかに隠蔽したポル・ポト政権の嘘/真実を、沈黙する土の人形で映画は静かに告発している。おびただしい人体の体液と肉を吸い込み、幾重もの隠蔽の層からなる土で作られたたくさんの人形は、父や母、姉の形をしている。静止と沈黙を守る人形たちは、今はもう生きてはいない哀しみを湛えながら、生が自分の手のひらにあった日々を、水に揺れる光の輝きのように反映する。

 

身体が欲しているのは、思想の実践でなく、生きていて欲しかったかけがえのない人に触れること。沈黙が発する叫び。かけがえのない記憶/画像が、プロパガンダ/嘘の土に隠蔽された事実を露にする。

 

ー 視力がよいことは、芸術の基本である。ー
ひまわりは、何をみせているのだろう。

 

菩提寺光世

 

台湾学生による立法院占拠(太陽花学運)について

 

 太陽花学運(以下、ヒマワリ運動)は、今年(2014年)の3月18 日から4月10日にかけて、台湾の立法院(日本の国会にあたる)を学生を中心とした市民のデモが占拠・包囲した事件である。その背景として長年に渡る中台間の歴史的関係が存在しているが、近因としては経済大国中国の台頭によって、中台間における中国の影響力が非常に強くなっていることがあげられる。
 そのような中で、中台の経済的緊密化を深めようとする二国間貿易協定である「中台服務協定」(情報や審議過程が市民に十分に開示されていないため<黒箱>と呼ばれる)の批准に向けての審議が立法院でなされていた。けれども立法院における与野党の審議は、一般市民にとって不透明かつ不十分なものであった。
 その不透明な<黒箱>の中身を開示せよと抗議する学生たちが、議場を公民の手に取り戻すべく立法院を占拠するに至った。学生による立法院占拠に呼応した市民の抗議集会によって、結果的に約50万人が立法院を包囲する巨大デモへと膨れ上がることになった。

 

 ヒマワリ運動の重要な特徴は、”非暴力”と”審議(対話)”に貫かれていたことである。約50万人以上が集まったとされるデモであるが、街頭のあちこちで集会に参加した市民による”公民審議”が行われた。 
 民主主義の根幹に”対話(コミュニケーション)”を据えたのがハンナ・アーレントやユルゲン・ハーバマスの公共圏論やコミュニケーション論である。ヒマワリ運動はまさにそのような草の根からの対話的民主主義の特徴を有している。民主主義が自由な”対話(コミュニケーション)”を根底とすることは、真理や規範がいかなる政治家や政党などに独占されるものではないことを意味する。ヒマワリ運動とともに路上に出現した無数の”公民審議”は、自らの生活を守ろうとする市民による草の根からの民主主義の表現にほかならない。

 

 現在、情報統制や市民との対話的審議を回避する政治によって、台湾のみならず東アジア地域における民主主義が危機に陥っている。左派・右派にかかわらず、真理や規範の独占を僭称し、対話を拒否する者たちによる権力の奪取によって全体主義が可能になる。対話(コミュニケーション)は、特権的な語りによって占拠し得ない、複数性を可能とする”空虚”を必要としている。嘘によって塗り固めることが不可能な”空虚”こそがあらゆる政治の核心に存在している。市民的対話を政治過程へと導入する”空虚”を暴力によって奪うことは、全体主義と、民主主義の死に直結している。
 その意味で、台湾における対話的民主主義の劇的な台頭は、東アジア地域における大きな希望である。それと同時に、東アジア地域における対話的な民主主義が拡大するかどうかの試金石にもなっている。

 

 

 

台湾太陽花学運から始まったアジア交流イベントに参加するため、うっかり者の私は、指定のカフェとは違うカフェで同行者を待っていた。私の間違いに気づいた彼は、指定場所には寄りも迷いもせずに、私を迎えに来てくださった。私の「余白=空虚」に彼はアクセスする。知らないことを、知られていることも具合が良い。

 

ひまわりは、種子のまわりに花弁をつけているのでなく、それぞれ違う形の多くの花々が咲いてひとつをなしていることを後で知った。
イベントに届けよう、私は小さなひまわりの鉢を抱えていた。

 

菩提寺光世

 
 

廉 菩提寺光世|2014.08.30

2014.8.30 投稿|