歓待のアポリア / テオレマ(定理)

投稿日:2015年05月19日

パゾリーニから読むデリダ

 

“絶対的な歓待のためには、私は私の我が家(マイホーム)(mon chez-moi)を開き、(ファミリー・ネームや異邦人としての社会的地位を持った)異邦人に対してだけではなく、絶対的な他者、知られざる匿名の他者に対しても贈与しなくてはなりません。そして場(=機縁)を与え、来させ、到来させ、私が提供する場において場を持つがままにしてやらなければならないのです”

ジャック・デリダ『歓待について――パリのゼミナールの記録』(廣瀬浩司訳・産業図書)から

 

cameraworks by Takewaki

 
 

苦しみぬいて、苦しみぬいて僕は死んでいく……..ギリシャ民衆詩

 

聴いていた音楽から、観ていた映画から、不意に、一見全くそれとは関わりを持たない何か別のものに、合点することがある。
多くの場合、それは不意に訪れる。偶然に。

以前、マタイの福音書に関するブログを書いた。それは、高橋悠治の演奏「パーセル最後の曲集」に触発されてのものであったが、そこに書いた映画、タルコフスキーの「サクリファイス」、ベルイマンの「冬の光」、パゾリーニの「奇跡の丘」もテーマ曲はどれも、バッハのマタイ受難曲だった。

 

そしてその映画のどれをも、

 

「マタイ受難曲 生きた神を裏切り見捨てた人間の
ロゴスとなった神からの耐え難い距離」

 

高橋悠治の言葉が、端的に表しているように感じた。

 

rengoDMS哲学塾の一連の講義はデリダで終わった。

 

デリダの「死を与える」は、旧約聖書、イサク燔祭が引かれ、責任の主体が問われる。
長年の間、子を授からなかったアブラハムに、神は子孫繁栄を約束する。その後ようやく正妻サラとの間に唯一の息子を授かる。神はそのたったひとりの息子イサクの命を、神に捧げるようにと告げる。神への抵抗を知らぬアブラハムは、サラとの最愛の息子イサクを捧げるために、絶対的他者である神のお告げにより「死を与える」行為を秘密裏に遂行する。アブラハムは、その秘密をサラにもイサクにも明かさず、ひとりで引き受けることによって、神への責任(responsibility)を負う。
と同時に、その決断は、知らされぬ妻サラ、息子イサクへの応答(response)の切断であり、彼らに対する無責任である。

 

一方ギリシャ神話のオイディプスは、父を殺し、母を娶ってしまうと告げられ、一族が滅ぶ呪いにおののき、運命から逃れようとすればするほど、決定された運命に向かって行く。遂には盲目となって流浪にさまよう。一族の呪いは、子孫アンティゴネーへと脈々と受け継がれ、命絶え、一族は滅ぶ運命を辿って行く。

 

そしてマタイ福音書のイエスも自らの命を代理として捧げることで、予言通りに、必然から逃れられないひとりであることを証明した。

 

絶対的なパロール(語り言葉/お告げ)は、エクリチュール(書記)によってあたかも証明されたように装われてゆく。パロールとエクリチュールはテオレマ(定理)の共犯的関係を持つと同時に、それが何一つとして決定不可能なものであることも暴いているのではないだろうか。

 

オイディプスの父親殺しと母との近親相姦の惨事は、事実を知らなかった者にとっては、淫らな神聖でもあったろう。キリストの犠牲は復活を保証されている限り真の犠牲、と誰が言えよう。それは、ホロコーストで焼き尽くされ捧げられたものと、意を異にしているのではないだろうか。

 

無神論者であることを主張し続けた同性愛者であったパゾリーニは、「神に自分を捧げることは存在することの中心となる事実である」と感じていたと言う。
彼は66年「奇跡の丘(マタイ福音書)」、68年「アポロンの地獄(エディポ=オイディプスの神話)」、69年「テオレマ」を公開した。

 

テオレマ(定理)は、訪問者を歓待した後、崩壊する家族を描いた映画である。
突然の訪問者は、彼自身の寓意とも神の寓意とも評されている。

 

いきなり電報が届いて、この物語は始まる。
ミラノの邸宅のアーチを抜けると美しい庭、ダイニングでは一家全員が食事をしている。成功を収めた工場事業主である主人、上品で良識のある人々。そこに突然の電報が女中から手渡される。
「明日着く」
だれもその訪問者を知らない。名もなく、身分もなく、絶対的他者であるような青年を迎え入れる。はじめにその青年の性的な虜になるのは女中である。自らの内部に起こった性の欲求を恥じ、聖母に赦しを請いガス管を加える女中を、青年は優しくなだめ慰める。訪問者は長男の寝室を共にすることになり、そして父だけを男性として尊敬していた生娘であった娘も、貞淑な妻も、熱病にうなされるように肉欲の交錯が始まる。客であったはずの異邦人は、家族全員に性/生を目覚めさせ、いつしか客と主人が主客顛倒の様態を見せ始める。
電報がなぜその一家に届くことになったかは、謎のまま、訪問者は突然姿を消す。

 

エロス(生/性/聖)の主を失った家族は、崩壊の一途を辿ってゆく。女中は巫女のように身体を空中浮遊させ、息子はアクションペインティングに身体を投じ、娘はヒステリーのように身体を硬直させ、妻はその身体をありとあらゆる男に捧げ、主人は全ての財を工場労働者に捧げる。

 

姿を消した青年を追い求める主人は、ミラノ駅構内で青い瞳の若い労働者と目が合う。主人であった紳士は、ズボンを脱ぎ捨て、上質なシルクシフォンのトランクスまでも脱ぎ、全裸となってふらふらを若者の後を追う。群衆の目、目、目。取り囲むズボン、ズボン、ズボンのなかを、裸足の両脚がふらつきながら、追い求める。映写の回転に目眩を覚える。上等で上質な装いの全てを投げ捨て、さらし者として、もはや群衆の好奇の目も、薄汚い駅の公衆トイレも意に介することはない高みにまで接近した紳士を、人は、人間を押し潰してしまうエロスの狂気と評するのだろうか。

 

「キリストが人間たちの間にやってくる寓話ではない。それは、神/エホバだ。恐るべき創造の神だ。私のすべての仕事は聖者と対決する」とパゾリーニは言う。
エロスが人倫を破壊し、宗教がセクシャルな高みにまで接近する。

 

「われわれは確固としたヒューマンな世界に生きてはいない。なぜなら精神的、道徳的な諸価値は、この世には枯渇しているのだから」

 

テオレマは69年に公開、その後、カトリック内部でこの作品の評価が対立し、上映禁止の措置を受けた後、「パゾリーニ裁判」が起こった。上は、映写が終わり、「テオレマ」をワイセツと断じた大学教授に対しパゾリーニが語ったことである。

 

この裁判はパゾリーニの完全な勝利で終わったが、その数年後、75年に滅多打ちにされたあげく、自分の車で轢き殺されたパゾリーニが発見された。矛盾だらけの自供による逮捕者はいたが、今に至るまで、真相究明からはほど遠い初動捜査であったと言われている。

 

デリダもパゾリーニも、生き生きとしたオリジナルの現前が在るとも、オリジナルな現前性を把握できるとも思いもしてはいなかったろう。

 

両者とも、不意に受け取ってしまった電報から再現されたり、されなかったりするものに注目していたのではなかったろうか。
始まりは、いつも偶然であったりする。

 

先のゴールデンウィークのある昼下がり、私は2年前に入社した所員とイベントの応募ハガキを作った。叩き台にしたのは彼が作成したrengoDMSのロゴがはみ出た下地に、イベント案内をシンプルに書いたものだった。白地に水色のすっきりとした清涼感あるハガキだった。
そこにイベント講師が新年の手紙に書き添えてくださった三巴の渦巻き模様を、当社のロゴとタイトル文字に絡ませようと私が伝え、ふたりで作成しているうちに、視認性に欠ける、どこか毒毒しい混淆したものができた。私はそれを面白く思ったが、ゴールデンウィーク明けの彼からのメールは、カード作成の基本的な決まりから外れている、ロゴを重ねることに問題はないか、と評判が悪い、としょげていた。

 

rengoDMSのロゴマークは、あらゆるものに変容する細胞のようなものを表している。その核のようなものに異質なものが植物のように絡んできて、混淆し変容しようしている。むしろ私たちを表してはいないか。
真っ先に、いたく納得したのは社長だった。彼は、私たちがそこに顕現していると確信するかのような深い頷きを見せた。若手所員が顔をほころばせた。

 

ま、私たちは彼らとともに、まことの黄金=生命を求めて、

「闇から光への旅」へと出発しよう。
【闇から光へ—黄金としての生命を求めて】 
鶴岡真弓「光、黄金、交換のトリニティ」イベント挨拶文抜粋

 

 

菩提寺光世|2015.05.19

2015.5.19 投稿|