精神性の師、吉田桂二。 生ける民家と風景の創造–豊かな、生活の場の脱構築 

投稿日:2016年05月25日

 

 吉田桂二の業績と設計思想を正当に評価しようとするならば、吉田を日本建築史という文脈から少しばかり解放して見つめる必要がある。というのも吉田の建築は、同時に文化運動としてあるからだ。
  その経歴と仕事から見えてくる、吉田が終生関心を寄せ続けたテーマは、”日本的美の創造”にほかならない。
  そのテーマは、『古寺巡礼』で”日本的美”を再発見した和辻哲郎、あるいは『美の法門』の著者であり、”民芸の美”を再発見し、日本の民芸美学を成立させた柳宗悦が切り開いた地平に連なるものである。
 日本近代建築史を語る上で明治維新と昭和の敗戦は、大きな切断点をなしている。「和魂洋才」というキャッチフレーズにもあるように、明治日本は、西欧文明の科学技術体系を導入することで近代化を果たそうとした。吉田もその著書で指摘しているが、「恋愛」が”romantic love”の翻訳語であったように、「建築」という言葉もまた”architecture”の翻訳語であり、幕末から明治初期にかけて大量に作られた新漢字の一つである。
 こうした由来からもわかるように”建築=アーキテクチャー”という技術は、この列島の市井にあったのではない。この国における建築は、欧米から訪れた冒険的技術者によってもたらされ、やがて大学という西欧的学問の枠組みの中に位置づけられたものであった。
 建築という視座の中では、吉田も指摘するように”民家”に見られる伝統構法は、過去のものとして顧みられなかった。それ故、近代化が進むにつれて伝統的木造技術は廃れていった。その結果、機能美を追い求めるモダニズム建築によって、鉄・ガラス・コンクリートという建材がこの列島を覆い尽くしていった。
 他方で和辻哲郎が見出した歴史的に重要だとされる伝統的文物は、生活から切り離された文化財として”静的保存(冷凍保存)”されてしまう。和辻は、奈良の古寺を訪れ、日本古来の伝統的美を再発見した。しかしながら和辻が再発見した美は、人々の生活から切り離された文化財であった。それらの遺物としての文化財をそのまま保守する在り方は、吉田が好んだ言い方をすれば「ホルマリン漬け」あるいは「ミイラ」のように生命を失ったものにすぎない。
 もう一人の日本的美の発見者である柳宗悦は、農民や漁民たちが日々の暮らしの中で使用する”雑器の美”を再発見した。柳は、伝統工芸に新たな生命を吹き込み、民藝運動の主導者となった。この運動は、”民藝(Volk Art)”という領域で現在も連綿として日本文化を”動的保存”するものである。柳の民藝運動は、ウイリアム・モリスのArts & Crafts 運動と同じく、大量生産−大量消費によって画一化されていくユニバーサルな近代的生活に対抗し、”ヴァナキュラー(地域固有)な美的生活”を再構築していく試みであった。
 吉田は、東京美術学校建築科(現東京芸術大学)で学を修めた《建築家=アーキテクト》であった。だが吉田もまたモリスや柳のように、大量生産−大量消費される商品としての近代住宅によって押し流されつつあった”民家の美”を再発見した。この再発見は、生命を失いつつあった伝統構法と木造家屋に新たな息吹を吹き込む使命を吉田に与えた。 
 とはいえ吉田は、柳のように工藝品の素朴さと美的直観を称揚するのではなかった。吉田が創造する”民家の美”は、彼が提唱する”架構を美しく整理し、止揚すること”にみられるように、伝統的技術と美が高度に結びついた将来的に発展性のあるものだ。
 吉田の建築は、個別の作品に還元することができない、生きられた新たな日本的な伝統建築運動にほかならない。この新たな伝統建築運動は、観照されるイデア的美の静的保存ではなく、生きられた生活空間の”動的保存(伝統の現代的創造)”を理念とする。この”動的保存”という理念は、環境と風土という概念に深く結びついている。
 日本そして世界中の集落を調査した吉田は、モダニズム以前のあらゆる建築がそれぞれの風土と結びついたものであることを学んだ。例えば、南イタリアのアルベロベッロに訪れたとき、小さな尖塔をしたトゥルッロと呼ばれる民家に吉田は深い共感を示している。
 トゥルッロに見られる石を建材にした伝統的な”組積造”は、古来から地中海地域一帯に広がるものである。そのような伝統を背景として、ヨーロッパの巨大組積造という建築文化ができあがったのではないかと吉田は推察している。 
 ヨーロッパは、日本の夏の高温多湿な自然環境とは違って、湿気が少なく乾燥している。その気候もあって風通しなどを気にせずに石を建材にして使用する伝統構法を育んできた。その土地土地の自然環境に即した風土によって育まれた伝統建築が存在するのだ。
 吉田は、日本の風土に結びついた建築は、近代以前の西欧文化の石材を用いた組積造でも、鉄・ガラス・コンクリートなどを用いる西欧のモダニズム建築ではなく、”木造建築”にほかならないことを指摘する。
 風土とは、吉田が指摘するように、手つかずの天然自然などではなく、人間と自然との営みの総和である歴史的環境をなしている。いわば風土は、人と自然との《連合(つらなりあい)》から生まれる賜物である。その意味で西欧のモダニズム建築は、日本の風土と全く異質なものであることが判るだろう。それ故、西欧のモダニズム建築は、日本の伝統的な風土を荒廃させてきたと吉田は考える。
 ”風土”を視覚的に表現するならば”風景”となる。個人主義的文化と自国の風土を背景とした西欧の建築は、日本の風景を荒廃させてきた。吉田によれば、無批判的・無自覚的な西欧モダニズム建築の導入は、実のところ”文化的植民地化”であり、風土と不可分に結びついた”日本文化の破壊”なのである。風景の荒廃は、同時に人々の意識が私的なものに閉じこもり、公的なものに対する関心を失いつつあることを明かにしている。
 吉田は、日本の風土が生み出した木造建築の現代的再生を志していた。例えば、吉田を中心とした信州飯田の大平宿で試みた”民家再生”プロジェクトは、必然的に先進的な”地域再生”を目的とした公的な町造りの原点になった。風土と結びついた民家は、人々の日常生活と不可分なものである。人々の具体的な日常生活から切り離されれば、動的保存としての”民家再生”はなされず、単なる文化財として静的保存となってしまう。吉田が試みるのは、人々の開かれた相互交流と実際の生活によって生み出される、生きられた日本的風土の現代的創造なのである。
 吉田の代名詞の一つでもある「広がり間取り」もまた、個室へと分断されつつあった家族生活を、日本的な開放空間で結びつけることで人間の相互交流を促すという設計思想に基づいている。広がり間取りは、近代建築を日本的なものによって新たに”再創造/脱構築”するものであったと言ってよいだろう。それは、吉田の設計思想に基づく、日本文化の現代的更新であった。
 市井の人々の生活を何よりも重視する吉田は、建築のミニマムである”住宅/民家”を主要な闘いの場とした。その闘いは、決して悲壮なものとはならなかった。
 吉田は、日本文化の破壊を宿命づけられた、無自覚な文化的植民地主義者である《建築家=アーキテクト》ではない。建築家を芸人になぞらえる感性を持つ吉田は、人々と同じ風土と伝統文化を共有し、それらを不断に更新してきた番匠や棟梁の系譜に連なるものである。吉田は、現代建築界に現れた伝統構法の相続者・更新者であり、生活者と悦びをともにする《建築家=番匠・棟梁》であった。

 

 建築知識 2016.3月号 吉田桂二追悼号 原文

 

 

戎居連太|2016.05.25

2016.5.25 投稿|