海女の漁場

投稿日:2016年03月30日

cameraworks by Takewaki

 

私のもんや
鳥羽市漁村の海女の言葉

 

「壺井栄「二十四の瞳」のなかで陽光にきらめく瀬戸内の海を眺める描写があります。
繰り返しては繰り返し、うち寄せ引く波を見ながら、
ー 昨日に続く今日、今日に続く明日を思う ー、
と言うような描写であったと、うろ覚えながら記憶します。
フライヤー写真を拝見致し、上方からの光を背に受けた小さな宮形と白い榊立てに、海風にさらされながらも日常信仰を支える揺るぎない基盤を感じました。
海面ギリギリの視点からみる海女の足ひれが上げるしぶき、
海の気配に気を配り舵とる船頭の握る手の加減から、
壊れてはならない、壊されてはならない人々の日常を思い、壺井の言葉をふと思い出した次第です。
昨日に続く今日、今日に続く明日を、小さなものが念願し、このイベントの成果を祈念致します。」

 

昨年私が送信したメールである。
若干感傷的なこの文面は、不安の現れと、そのわずかな現れを先方に読み取ってもらうためのものだった。受け取り人は、港千尋氏と平出隆氏、そして齋藤彰英氏。鳥羽商工会議所主催「神の漁場」と題されたイベントの話を伺ったのは、平出隆氏からだった。

 

「御食国(ミケツクニ)」のイベント。御食国は、海産物などの上質な特産品を天皇に奉納するため限定されたわずか数カ所の国(地域)を指す言葉だと言う。二つ返事で引き受けた企画の協力ではあったけれど、貢、奉納、神、という言葉の数々が徐々に気になりもしてきた。これは小さなものの数々が、ひとつの大きなもののなかに組み入れられて行くような話になりはしないだろうか。八百万の神々が、一つまとまって合祀されるような。まさかそんなはずはなかろう。
イベント開催の前月に平出氏のメールがコロンビアから送信された。聞けばその後もオスロ、ロンドン出張と居場所が定まらない。イベントが向かう先の舵取りと思っていた平出氏の不在が、ゆらゆら私を漂流させる。開催の当日、齋藤氏を見つけるなり腕を掴んで、満面の不安で確認した。
「大丈夫ですよね」
「大丈夫。大丈夫」
こういう時の二つ返事と、いつもと変わらぬほっこり笑顔は、さらに私をゆらゆらさせる。

 

そんな不安に揺れる気持ちをしっかりとつなぎ止めたのが、登壇した海女の回答であった。
「私のもんや」
海から上がったばかりで体力を使い果たしたであろう女性が、網いっぱいの海産物を引き上げる。かなりの重量の網を揺れる船の上に引き上げねばならない。何故その重さに耐えられるのか。たった一言で納得させた海の女の力強さに、私の不安はたちどころに消えた。ひとりの女性の生命が海の生命に結ばれている。万が一にも海が汚染され、破壊され、もしくは乱獲によって資源が枯渇したなら、海女の生命も継続できない。「私のもんや」とは、何人にも独り占めさせない強い意志の現れであろう。その言葉は、自分が所有することの表示であると同時に、誰の所有も許さない自然の循環のなかに全ての生命の営みがあることを指す。海も山も風もヒトもひとつながりになっている。
獲得した海産物が、この女の糧になることに揺るぎない。だからどんな荷重にも耐えられるのだと答えたのである。ただの一言で。

 

会の主役は終始彼女たちだった。会は海女が舵を取り、彼女たちの生活力で進んでいった。展示作品も平出隆と港千尋も、さらには御食国も神宮も海女を映す景色に見えてきた。会も終盤に迫った時、港千尋氏が言われた。
数千年の長さで一つの営みが維持されてきた。それは海女が乱獲によって海の資源を絶やすことがなかったと意味することだろう。男性であったなら、そうはいかなかったかもしれない。女性が次の生命を育み、その持続性を営んできた。海という言葉(漢字)に母が含まれているのも無関係ではないのかもしれない。今だからこそ私たちは、女性に学ばなければならない。

 

そして最後に鳥羽商工会議所の清水清嗣氏が括られた。
「海女文化を観光資源にしてはならない」、と。

cameraworks by Takewaki

 

海女(なかむらみちこさん、みやびさん、さゆりさん)の皆さんに地元の料理を振る舞われ、良い具合にお腹がふくれ、不安と緊張もすっかり解けたところで仁田美帆監督「海の聲」が上映された。伊良子清白の詩を音読する聞き覚えのある声が、風と海の音の波間に行ったり来たりしている。声は、リズムとなって、はじまりも終わりも分からない波の中に入って行く。知らず知らずに同じ循環に引き込まれ、フと目が覚めた。眠っていた。
スクリーンには変わらぬ声が波に乗って、行ったり来たりしていた。

 

波と波とのかさなりて
砂と砂とのうちふれて
いせをの蜑が耳馴れし
音としもこそおぼえざれ
伊良子清白 「海の聲」

 

息が流れ出して声になる 流れから現れる音は流れに押されてすすむ 漂流物のように 聞こえない流れは音に触れて渦を巻く 渦が音を崩し回転させる 炎 煙 風 雲 霧 霞 川 音が消えても流れは途切れない
高橋悠治 ツイッター2016/3/21

 

菩提寺光世|2016.03.30

2016.3.30 投稿|