リヴァイアサン

投稿日:2016年06月20日

cameraworks by Takewaki     

 

人皆化して鬼為りイキ為らざる者は、

 

性の善なるが故なり

 

性の善、豈貴びざるべけんや

 

伊藤維楨 「童子問」

 

幼い頃の記憶。

絵本「泣いた赤鬼」。

鬼である故に村人に恐れられる親友赤鬼を、村に迎え入れて貰えるよう一芝居打った青鬼。村を破壊し大暴れする自分を赤鬼に退治させ、青鬼は赤鬼のもとから去って行く。人間社会に仲間入りしたものの、二度と会うことができなくなった友をおもい赤

鬼が泣いた。

 

犠牲をテーマとするこの話に、今も回答を得られずにいる私が、子安宣邦氏から論語を学ぶようになった。人は子供が井戸に落ちたら助けようとする憐れみの心を生まれながらにして持っている、それを持っていないのは人ではない。それが四端の心の一つ「惻隠の心」だと孟子は説く。伊藤仁斎(維楨)は、四端の端は、元(生まれつき)だと言う。それを充し(みたし)育てていけば道徳(仁)は形成される。孟子を通じ読み解く仁斎の論語には、禅宗と一体となって入ってきた朱子の説いた論語とは全く異なる理解がある。

春から夏、夏から秋、秋から冬となるように順序を追い、乱れることのない天道を説く朱子。予め決定され、乱れなき天道から儒教的精神を受け入れ、国体の基盤となる決まった道筋に誘導する教育勅語に通じていった事実に対し、仁斎の天道は不意に乱れる。「真実無妄(真実でみだれがないこと)」と言った朱子に、「真実無偽」と仁斎は対する。天は偽りを許さない、けれども乱れる。常に動いているからだ。お天道様に与えられた規範、手本としての天道を仁斎は消してしまう。人が行き来する人の道があってはじめて天道がある。

道が人を大きくするのではなく、人が道を大きくする。

学ぶことによって道を実現して行く。道徳行為者になれるのは、四端の心/同情心(共感)を持って生まれているからだと言う。生まれながらに善を天から与えられているという性善説を否定しても、善の実現を可能とする素地が人には備わっている。
なかには孟子が言うところの自暴自棄の者といった、人であることを破壊し、棄てているヒトデナシもいるけれど、ヒトがヒトであることはヒトという性を持っているからだ。鳥が飛んで、魚が泳ぐのは、ヒトとは違うものを持っているからだ。天がくれてもくれなくても普通であれば鳥は鳥で、魚は魚、ヒトはヒト。

 

ヒトはヒトだからヒトなんだという当たり前であるだけに、意識の外に追いやっていたものを、不意に感覚器を揺さぶり意識させた映像、それが大型海洋漁船のドキュメンタリー「リヴァイアサン」だった。この映像はハーバード大学「感覚民俗誌研究所」人類学者ル–シャン・キャスティーヌ=テイラーとヴェレナ・パラヴェルの監督作品である。

これが今までの映画と全く異質な印象を持つ理由について映像作家想田和弘は、「リヴァイアサン」の特異性は「人間以外の視点を獲得した映画である」からだと評する。人の視点が画面を追う従来のカメラワークではなく、GoProと呼ばれる超小型の防水カメラは、荒れうねる波を真っ二つに切り進む巨大漁船の至る所に取り付けられる。さらにカメラは船舶労働者に、ロープに、クレーンで引き揚げる底引き網に、引き揚げられた魚に、その魚を狙いついばみ群がるカモメの脚に装着される。死んだ生物に、働く生物に、機械に、道具に、取り付けられた全てのカメラは、大海原の波をうねり、動かぬものは一台もない。当たり前のことだ。世界は動いている。人の視点を離れた画面は観る者の感覚器をおおきく揺るがす。溺れるように詰まる息とまっすぐな着座困難を覚える眩暈に、じっとりと冷えた汗をかいているわたし。映画館の空調音がわたしをこちら側の世界に留めている。軋むクレーン、暗闇を支配するエンジンの爆音、しぶく波、カメラが海面間際で水中を出たり入ったりするなかで、頭上をカモメの大群が泣き叫び渦巻く。ヒトと異なる性を持つ生物の視点が、感覚器を振り揺らし真っ向から挑んでくる。殺戮されたおびただしい数の魚と鮮烈に赤くたぎる血液、淡々と作業する労働者、横取りを狙うカモメの渦。それぞれの営みが他の営みを呑み込み世界が渦巻いている。生きものの特性である残虐と卑劣と殺戮が、繰り返し渦巻き続ける。怪物「リヴァイアサン」の前にヒトも鳥も魚もひれ伏すしかない。ヨブもホッブスも暗闇のなかうごめく圧倒的な力の前に、秩序と安穏を獲得する標を照らす。

 

生物科学の基礎を持つ夫から「社会脳」という言葉を聞いたのは、数年前に遡る。暗がりの渦にに迷いこんだ時に、「社会脳」が照らしてくれる可能性があると感じた。ヒトは元々ほんとうの利他性を備えているのではないかという説らしい。利他性に「ほんとうの」とつけたのは、人は元来利己的なもので、義侠的にもしくは承認を求める自己愛の産物として利他行為に及ぶという考え方も多く、その事実は否定できないからである。ヒトは内なるリヴァイアサンを持っている。

しかしそれとは別に、他の歓びを自らの歓びと感じる回路を脳は持っており、ほんとうの利他行為が報酬系に作用することが科学的に解明され、根拠づけられることも遠くない将来にあることだろう。また一見利己的な功利行為であったとしても、共感する適切な反応があれば利他と変わらぬ回路を行き来することになるのかもしれない。

 

仁斎からさらに進めば、天の道が人の道を映したものであるならば、人の道は脳の道/回路を映したものと言えるのかもしれない。

プラトンが語ったミーメーシスとは真逆の話になってくる。

リヴァイアサンを倒す鍵は、青鬼が去らずにすむ村の中にあるのかもしれない。

 

赤鬼が喜ぶことが自らの喜びであった青鬼だけど、赤鬼の喜びは青鬼不在の悲しみを埋められない。

 

参照文献他:童子問 伊藤維楨 岩波文庫仁斎学講義 子安宣邦 ぺりかん社
〈法〉と〈法外〉なもの 仲正昌樹 御茶の水書房
批評理論と社会理論:クリティケー/コミュニケーション・メディアとミメーシス 清家竜介 御茶の水書房
リヴァイアサン(映画) レヴュー/人間以外の視点を獲得した偉大な実験 想田和弘 

 

「rengoDMS論語塾」 講師:子安宣邦

 

菩提寺光世|2016.06.20

 
2016.6.20 投稿|