家ということ-虹のキャラバンサライ/あいちトリエンナーレ

投稿日:2016年09月01日

場(旅するものの家)をくれたあいちトリエンナーレ港千尋の歓待に感謝を込めて

cameraworks by Takewaki

 

“絶対的な歓待のためには、私は私の我が家(マイホーム)(mon chez-moi)を開き、(ファミリー・ネームや異邦人としての社会的地位を持った)異邦人に対してだけではなく、絶対的な他者、知られざる匿名の他者に対しても贈与しなくてはなりません。そして場(=機縁)を与え、来させ、到来させ、私が提供する場において場を持つがままにしてやらなければならないのです”
ジャック・デリダ『歓待について―パリのゼミナールの記録』(廣瀬浩司訳・産業図書)

 

「about rengoDMS」という私たちの基本姿勢を表現するサイト頁がある。戎居連太から「招く/ホスピタリティー」を私たちが提供する住宅の基本姿勢にしたいと告げられた。ならばデリダの「歓待」に重ねよう、と清家竜介に相談したところ上を引用することになった。それについて私たちは幾度となく議論を交わして来た。

セキュリティー強化へ向かう昨今の住宅事情において、無条件に開かれる私宅など現実的には不可能に近い話だろう。デリダの「私の我が家」と所有の鍵を二重がけにしたような家を、一体どうすれば無条件に開くことができるのだろうか。

 

デリダがこの概念を世に問うた当時の社会情勢、彼が果たしていた社会的な役割と、現在の移民、難民の受け入れ問題を照らし合わせても、来訪者が在住民を侵害し、その生活を破壊する因子になりかねぬ状況はかつても今も拭いきれない。「条件つきの歓待と無条件な歓待というふたつの歓待は、異質なものでありながら分離不可能なものなのです。」というアポリアで私たちはいつも立ち尽くす。

 

そして私はこの夏の旅で、「起ることが起こるのであり、到来するものが、到来するのです」を体験したような気がする。歓待したのは、あいちトリエンナーレ港千尋であり、未知の来訪者であった私を迎えたのは、小杉武久だった。私の来訪はおろか存在も彼は知らず、彼がそこにいることを私は知らなかった。互いが意図せぬ偶発的な出来事だったといえるだろう。

名古屋会場だけでも複数カ所あるイヴェントであったから、たとえ小杉武久の作品が展示されていると知っていたとしても、会えない確率は出会う確率をはるかに凌ぐ。旅は一通の招待状からはじまった。

 

旅から帰宅すると中庭の手水鉢を眺め、夕方の音に耳を澄ませた。蝉のわんわんする響きが旋回し、空気に滲む。すぐにも降り出しそうだ。小鳥はやってきただろうか。

 

手水鉢が気になりだしたのは、ここ半年のことだ。正しくは手水鉢に残された跡を気にしている。
もしかするとこれは末井さんの影響かもしれない。彼は差し上げた柿の種子を育て、その成長写真を毎年送って下さっている。訪ねると、大抵は青林工藝舎の雀が飛びまわっている部屋に通して下さる。一時期は、ハムスターや障がいがある雀、犬が同居していた。その畳部屋では、誰も肩身の狭い思いをしない。誰ものなかには、訪問客も末井さんも動物たちも入っている。末井幸作はそのような人だ。

 

昨年、枯らしてしまった紅葉に毎朝手水鉢の水をすくって与え続けたのは、末井さんに倣ってのことだった。半年経った春、芽吹いた。手水鉢が澄んだ水に満たされ、朝ははじまる。葉は広がりを見せた。
その水を目当てに小鳥たちがやってくるようになった。小さな身躯を震わせ、水が跳ね上がる音を聴きたくて、私は早起きを続けた。小鳥たちは水浴びをし、まっすぐな声を天に向かって響かせた。

 

私の家のなかの出来事ではあるけれど、中庭は無条件に開かれている。手水鉢は、私が主(あるじ)であるけれど、小鳥たちは決して私の客ではない。客であって客ではない。小鳥たちの水浴びの痕跡に、私は彼らのもてなしを受けている気分だった。

 

2016年8月10日あいちトリエンナーレ開催前日、招待状を手に出掛けた。大きなワークブックに架かった虹の写真と、ホモファーブルの文字に、どうしても内覧会に参加したくなったのだ。虹(光彩のスペクトラム/連続性)と、物を作って来た人類の痕跡に、解けない秘密が照らされる気がしたからだ。

スペクトラムという言葉をとりわけ頻繁に聞くのは精神科医の夫からだった。その言葉を聞く度にイメージするのは、白色に輝く太陽光が屈折、分光し、つながり広がる虹の帯だ。

 

思いもかけず出会った小杉氏は、インスタレーションの脇に置かれた椅子に腰掛けていた。そろそろと近づいた私ではあったけれど、訊ねたいことは既に整理されていた。長い間、繰り返し持つ疑問だったからだ。イースト バイオニック シンフォニアやタージマハル旅行団のレコードを示し、彼の名前を教えてくれたのは、夫だった。
私の質問は、ジョン・ケージの音楽についてだった。

 

 

いつかケージと関わった演奏者に訊いてみたいと思っていた。数年前キッドアイラックホールで大友良英、sachiko Mと共演した刀根康尚のスピード感に驚き、演奏後、刀根氏の販売CDを求めようとした私に「これは即興に使うために作ったもので、一枚しかないし、困ったな」「それに自分でも何が出るか分からないんだ。出た音に即興してる。ライヴで使うし、あげたいけど困ったな」とご自身の演奏道具であるCDをねだったと勘違いされ、私物を見つめておられた刀根氏だった。申し訳なさそうな彼の表情から、私の興奮が伝わったことがすぐに察知できただけに、今度は私の方がさらに申し訳なくなってそれ以上の話ができなかった。

高橋アキ氏によるケージのレクチャーコンサートの連続講座は6、7年前のことだっただろうか。出席されていた勅使河原宏のプロデューサー野村紀子氏から、「直接(高橋)アキさんに質問するように」と背中を押されながらも質問しなかったのは、質問自体に確信が持てなかったからだ。音楽をさほど聴かない私の思い違いに過ぎないのかも知れない。それから数年間、それでも何度聴いても同じ印象を受けていた。ジョン・ケージの音について。

 

カニングハムとケージは、互いの音や身振りに互いが反応しているように思うが、全く影響を受けずにいることができるのか?
チャンスオペレーションは作為的な無作為ではないだろうか?ケージの作品がケージだと分かるのは、ケージのスタイルがあるからではないだろうか?

ケージの音楽から情感が溢れ出るように思うのは、私の錯覚だろうか?私がケージの曲から想起する風景は、叙情的な色彩を帯びている。

 

小杉氏は億劫気にゆっくりと小さな声で口を開いた。

「こういう話はしたくない。体調も本調子というわけじゃない」

と拒みながらも私と同じ方向に顔を傾けて、質問の都度、静かに頷いた。

 

小杉氏の回答から、Jケージが姿を現してくれるようだった。

 

旅を終え帰宅した雨の夜に、島田璃里のサティ、小杉武久の即興デュオのレコード「記憶の海」を聴いた。どこか懐かしさを有する不思議なサティの旋律に、小杉武久のヴァイオリンはメロディーを引っ掻き、きしみ、苦しげに掠れた。時折、聴く者を寄せつけず攻撃的に放たれるノイズは、慈しみと憐れみを同居させているようで、私は雨音に耳を傾けた。
非公開を条件に撮らせて頂いた写真の小杉武久は穏やかに笑っている。

 

先日突然訪問した青林工藝舎は、主も末井さんも不在だった。留守番をしていた愛犬ラッキーが微かな唸り声をあげて訪問者を警戒した。私と分かると途端に表情を変えた。主人の不在を心細く寂しく思っているのが伝わり、同様の思いをしていた私と心が通ったと実感した瞬間だった。無防備に開かれ、犬が留守番を預かっていたから成立した交流だった。

 

門も塀もない。吉田桂二「余計なものはない方が良い」の一言でそうなった。しかしポイ捨てはされるし、不届きな飼主の犬が敷地に糞を置いて行く。突然の大雨に、我が家の玄関先で雨宿りをした小さな子連れの母親と出くわしたことがあった。差し障りのない挨拶をし、ビニール傘を差し上げた。若い母親は無言のまま降りしきる雨のなか、子供の手を引っ張り立ち去ってしまった。傘は残された。

有刺鉄線が巡らされた近隣宅の高い塀の上に、捨てられた空き缶を見つけたのは一昨日のことだ。

 

条件つきではあるけれど、あいちトリエンナーレ「虹のキャラバンサライ」(旅するものの家)がなければ、私はおそらく小杉武久氏と出会い話すことはなかっただろう。

無条件の歓待がなければ、条件つきの歓待は成立しない。

明日小鳥は来るだろうか。
                                                                                                  

 

人が未知のイメージや言葉を求めるとき、それは大空に架かる虹のように生じるかもしれないし、休息する旅人の夢のなかに現れるかもしれない。

創造は時空を超えて出会う、数かぎりない記憶の十字路で起きるのだ。

『夢みる人のクロスロード 芸術と記憶の場所』 港千尋

 

関連ブログ:
オリジナルLP 2014年5月

参照文献:
『テロルの時代と哲学の使命』 Jハーバマス、Jデリダ、Gボラッドリ (藤本一勇等訳・岩波書店)
『歓待について――パリのゼミナールの記録』Jデリダ(廣瀬浩司訳・産業図書)
『夢みる人のクロスロード 芸術と記憶の場所』( 港千尋編・平凡社)

 

菩提寺光世|2016.09.01

 

2016.9.1 投稿|