津島佑子のこと 冬の日の出来事

投稿日:2016年12月10日

広瀬川はかがやきを失わず、豊かに流れつづけ、そこでは耕一郎があどけなく微笑を浮かべ、わたしを待ち受けていたのです。わたしの弟であり、耕一郎の父親である遼一郎が寄り添っています。
「狩りの時代」 津島佑子

 

 

今年も終わろうとしている。

津島佑子氏逝去の知らせが入ったのは、春はまだ先の2月半ば。四谷の聖イグナチオ教会での葬儀ミサに戎居と参列した。ようやく彼女と出会えたと喜んだのは3年前のことだった。20年以上前から、ぜひ紹介したい、と言ってくれたのは戎居の父、戎居研造氏だった。連合設計社の創立者である。彼の厚意があったにもかかわらず、幾度かあった機会を逃してしまった。お会いする前にまずは、と戎居さんから渡された太宰治の文庫本は書棚の幅5〜60㎝をしめる。そののちも津島佑子の著作品が発刊されると買ってくださった。太宰治は小、中学生時に数冊を読んだきりで、買ってくださったものは読まれず棚に置かれたまま数年が経ち、戎居さんはなくなった。私はまともな礼はおろか、何ひとつの感想さえ言えずじまいになった。

ぜひ紹介したい、と再び言ってくれたのは、息子の戎居連太だった。こんなに早い別れが来るのなら、もっとひとつひとつを、もっと丁寧に、もっと多くの作品を読んでおけば良かった。もっと多くを聞いておけば良かった。彼女がキリスト教徒であったことも知らなかった。それが意外でならなかった。根拠が確然とならぬものには依らない人だろうという印象を、私は持っていた。だから信仰には無縁だろうと。知りたいことを何も知らない。教会の硬い椅子でそう思った。

 

初めて会ったのは、東京では数年に一度あるかないかの大雪の日だった。路肩にかき分けられた雪は腰の高さに達していた。雪は新しくあつらえられた津島邸のリビングを温かに囲い、室内に集った者たちをより親密にさせた。意見が違う人も、見た目は変わらないけど国籍が異なるブラジルや中国といった初めて出会う人びとを、雪が同じように平らに囲い、外界の雑音を遠ざけた。それぞれが自己紹介をする折り、それを補う津島さんからの紹介が加わった。私が名乗ると、彼女の表情が、おやっとなって目が合った。「戎居研造さんという方がいらして彼は壺井栄に育てられた。壺井繁治、栄夫妻、佐多稲子、中野重治ら戦時中に弾圧を受けた文学者たちのメッセンジャーボーイ的な役割を当時の戎居少年が果たした。菩提寺さんは彼のお弟子さんね。」血の繋がりがあったりなかったりする系譜の末端に私が位置し面白かった。私のことをそんな風に話しておられたのか、と恐ろしいような気分でもあった。遠慮がちに黙っていると、思うことがあるのなら話しなさい、と促される。原発から人権、戦争そして憲法へと話が進み、丸山眞男の話になった。集ったそれぞれの親や親族に、違う背景や事情を持つ人たちのなかで緊張せざるを得ない内容にも話は及んだが、どんな話も意見も滞りなく行き来した。雪は止んでいた。時折屋根から落ちる雪のかたまりがドサッと音をたてた。極寒の大陸の内地式に入れられた本場の熱いミルクティーを皆で飲んだ。訪問者も家の主も、皆で温かい食べ物を作っては出し、次々と空になる食器を洗い、次の料理を盛った。終電がなくなってしまう、と慌てて帰り支度をはじめると、ちょっと待っててと手渡されたのは、2013年すばる3月号に掲載された「一九八九年の丸山眞男」と題されたインタビュー記事のコピーだった。これ読んでおきなさい、彼女が命じる口調にはなんとも気持ちのよい、委ねられる父のような男らしさがあった。

このサイトに「ヤマネコ・ドーム」の感想を書いた時、津島さんから頂いたメールに書かれた敬称の「さま」と「ありがとうございます」と「びっくりさせられます」のひらがなの表情に、彼女のなかの少女を見つけた。

 

彼女が逝ってから発見された遺稿について、差別の話になったわ、と言い残されていたらしい。その発見の経緯は「狩りの時代」のあとがきに津島香以さんが書かれている。

津島作品では水が性と生命の源流のように、そして死へ誘う闇として出現する。時に水によって断絶され、隔たる水の向こうから再びの逢瀬が叶えられる。それは「火の河のほとりで」の河であり、「ヤマネコ・ドーム」の沼であり、さらに「狩りの時代」の少女が我慢できずに放出させた体内から溢れた水。先述の引用文にある広瀬川であろう。広瀬川は先に逝ってしまった者たちを、こちら側にいる者たちと隔てる流れであるけれど、もはや流れは届かぬ向こう岸への断絶でなく、「輝きをうしなわず、豊かに流れつづけ」、「あどけない微笑を浮かべ、待ち受けて」いる者へと渡し、誘う流れである。

一方で少女が放出させた水とは、第二次世界大戦時に訪日したヒトラー・ユーゲントを熱烈に歓迎した少女が、歓迎式典時に緊張のあまり草むらで用を足す行為であり、「憧れ」の性的な本質を表わしているかのようだ。「狩りの時代」で「憧れ」は、「差別」と表裏一体となって人の根源的な欲望に根ざしていると言えるだろう。

 

私は彼女の作品の言葉をひとつひとつ追いながら、そして拾うように読んでいる。

書棚に置き去りにされていた著作を開いた時、それが贈呈本であったことを初めて知った。著者と同じ筆跡で書かれた私の名前が売上げスリップにもあった。戎居さんおひとりからの贈り物ではなく、津島さんとお二人からの贈り物だったのだ。気がついたのは、既に二人とも逝ってしまった後だった。私は詫びることもできなくなった。

 

「狩りの時代」を発見された長女の香以さんや編集者といった著者の承諾を得られぬ遺稿の送り手の心配はよそに、読み手以外の立場を持たない私だから断言しても良いだろう。「狩りの時代」は、完成か未完成かという問題をはるかに越えて発刊されなければならなかった。

彼女なら私にこう言うだろう。詫びる暇があれば発しなさい、と。

 

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「狩りの時代」感想文は、都庁前クリニック「スクラップブック」へつづく

 

 

菩提寺光世|2016.12.10

2016.12.10 投稿|