顔淵

投稿日:2017年06月17日

噫、天喪予。天喪予。

(ああ、天われをほろぼせり。天われをほろぼせり。)

「論語」(先進篇・八)

 

cameraworks by Takewaki

 

なぜ論語か、そこからはじめよう。

私が子安宣邦氏から論語を学ぶようになったのは、論語講座の開催場所として弊社会場を提供したことがきっかけだった。はじめてお会いした時、わたしは若干構えていたと思う。論語に対するイメージに偏りがあったからである。かつて軍国主義国家のもとで教育は、強く政治性を帯び、教育勅語を軸に制度的に成立する。その官制の教育システムの基となっていたのが論語だというイメージを持っていたからだ。「先生は帝国大学ご出身の先生でいらっしゃいますか」、と私が質問すると、その場にいた誰もが一瞬固まった。先生をご紹介してくれた友人が慌ててフォローしようとしたその時に、「いくらなんでも私はそこまで歳を取ってはいない」、これが子安先生の回答だった。さらに私が「そうではなくて帝国主義みたいなもの、という意味において」と続けると、途端おおらかに大笑いなさった。

このように始まったのがrengoDMS「論語塾」である。

 

今からおよそ2500年前の中国で孔子とその弟子達による問答集が、孔子の死後「論語」となって編纂された。その点では仏典や聖書と似ている。救い主かどうかといった立場は別にしても大きく異なることは、論語は、何か広場のようなところで不特定多数の民衆に向かって法や教えを説いているのではなく、その時その時に孔子があるひとりの門徒と交わし語られた対話集であることだろう。

その後12世紀に朱子が登場し論語は朱子学として体系化され、鎌倉時代の日本に入ってくる。
儒学は日本では京都五山や鎌倉五山などいわゆる官寺、主に臨済宗の禅宗寺院の僧たちによって禅儒一致の立場で受け入れられる。その後朱子学は、江戸徳川幕府の身分秩序の理念の礎として大きな役割を果たすことになる。
身分秩序を軸に統治された江戸幕府から距離があった京都では、裕福な町人、公家、僧侶など知識層との交流があったと考えられる。中国では明が衰え、清の勢力が拡大隆盛する混乱期の影響も受け、カウンターカルチャーともいえる身分や体制の枠にとらわれない自由な文化が京都で盛んになった。それは京都が地理的に江戸から距離があったことが一因だったのではないか、と美術史家狩野博幸氏は指摘する。

頃を同じく伊藤仁斎は1627年(寛永4年)京都の商家の長男として誕生する。幼少の折より落ち着きを備えた仁斎は、11歳で中国の古典、儒教経典の句読を習い精通し、学を志す青年となる。書物を熟復し読み、志を貫くべく研磨する日々。「黙坐して心を澄まし、天理を体認せよ」禅儒一致の傾向の強い朱子学に、彼は深く内へと沈み、突如心身に不調をきたした。その後10年の間、門の外にも出ず内にこもる。身体の不調を脱したのは、朱儒性理の説を脱したのと同時期のことで、36歳になった彼は京都の生家に戻り塾を開いた。町人、農民の隔てなく門徒が3000人にも及んだこの塾で説かれたのが、「古学」、朱子の解釈に依る論語ではなく、本来の意義を読み取ろうとする学である。

 

朱子学は人間の抑圧的な思想体系であるのではないか、と自らの罹患を通し感じた仁斎は、朱子のように論語を概念規定する規範的なものとしては読まない。論語が「宇宙第一(世界一)」の書である所以は、人に分かり難いことを言うことは邪説であり、誰にでも分かるように説かれているからだ、分かりやすく親切な回答をするのが孔子、論語の趣旨であるからだ、と言う。

 

仁斎と朱子の論語解釈において際立って異なる点は、道に対する解釈であろう。
朱子は、路(道路)によらなければ目的に達しない、と規範性を説いた。それに対し仁斎の路は、人が行ったり来たりしている、人間の関係性をもって常に運動している状態を指している。仁斎にはまず人の道がある。天道とは単に人道を映したものであると説く。イデアが顕現するといったプラトンのミーメーシスが、方向を逆に転じられるような話とも受取れる。
仁斎の天道観「天に必然の道(理)がある」とは、善いものには福があり、悪いものには禍(わざわい)がある、のである。「人のほかに道無く、道のほかに人無し」が天の道に反映される。

 

冒頭の「天予を喪ぼせり」は、愛弟子顔淵(顔回)を失ってしまった孔子が発した嘆きである。

孔子は人生の晩年で、自分より30歳若く、学を継ぐものとして将来を嘱望された顔回を失ってしまう。子安宣邦氏は「思想史家が読む論語」(岩波書店)で、

−「天予を喪ぼせり」とは、孔子が天に訴えかける究極的な挫折の嘆きである。−

と言っている。それは天を確信し、天に依拠する孔子の姿である。信頼しきっているから「なぜ天が私を見捨ててしまうのか」と顔回の死を嘆き、慟哭すると子安氏は指摘する。
伊藤仁斎が、この孔子の言葉に対し、学を継承し伝授すべき高弟を失ってしまった孔子の嘆きであるという解釈に留まったのに対し、子安氏はこの嘆きこそが、天に依拠する孔子の姿の現われであり(信仰の)証であろうと注目する。

 

翻訳されれば、全く同じ意味内容の言葉を発していたのではないか、と思えるのが、磔刑に処せられたキリストの叫びである。天を仰ぎ見て、キリストもまた二度繰り返し呼びかける。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」声は響き渡り、大地が震える叫びであったと記される。この嘆きに対する解釈において大変興味深いのは、映画監督イングマール・ベルイマン「冬の光」に登場する背中が大きく曲がった体の不自由な教会守の言葉である。耐えることが出来なかったキリストの苦しみは、肉体の苦しみではなく最期の最期に神を信じきることが出来なかった、不信の苦しみである。と、彼は言うのである。肉体がほろびる直前にキリストは、約束された自らの復活を信じることができなかった。最期に「神に見捨てられた」、と叫ばざるを得なかった。その不信が、キリスト自身をほろぼさせるほどの苦痛を与えた原因に他ならない。神は沈黙のまま応答しない。それがベルイマンの解釈なのだろう。

 

同じ様な言葉が、一方では信に、他方では不信に根ざしている。

 

グリューネバルトによるイーゼンハイム祭壇画には、耐えきれず苦痛に歪むキリストの姿が生々しく描かれている。やせ衰えた肉体は、十字架に打ち付けられた手足に重く押しかかり苦痛をもたらす重力としてのみ描かれる。やせこけた頬は青ざめ、突き刺さる茨の冠が血を滴らせる。垂れ下がるキリストの姿に、生命のわずかな活力も希望のかけらも見出すことはできない。この祭壇画は聖アントニウス会の施療院にあった。磔刑に処せられたキリストの苦しみが、助かる見込みが絶望的な疫病に罹患した人びとの苦しみと共にあることで、救済へと導いたのではないだろうか。

 

救済の御手が差し伸べられるのもまた、一方では揺らぐことのない信からであり、他方では不信から生じる絶望の苦悩が救いを求める人びとの苦しみと共にあるからであろう。

 

私の幸せは論語を、朱子学からでなく、伊藤仁斎から子安宣邦氏によって学べたことだった。

 

 

エリ、エリ、レマ、サバクタニ

(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。)

「聖書」 マタイによる福音書 第27章・46

 

 

 

参考文献: 
「思想史家が読む論語」岩波書店 子安宣邦
「仁斎学講義」ぺりかん社 子安宣邦

 

 

菩提寺光世|2017.06.17

2017.6.17 投稿|