米原康正×仲正昌樹×菩提寺伸人トークイベント第一弾

投稿日:2018年02月01日

cameraworks by Takewaki

 

仲正昌樹+米原康正+菩提寺伸人トークセッション (司会進行:菩提寺光世)
                          2017.12.10 @連合設計社

 

――このトークセッションを企画したのは、80年代辺りのサブカルチャーを中心にカルチャーを語ろうという意図からです。80年代カルチャーについての書籍等は多数出ていますが、どうも当時を過ごした私たちにとって違和感を持つものが多かったりします。また深く掘り下げられず出来事の羅列だけで終わっていたりと。あの頃のカルチャーが実際にどうであったのか、その現場を知る当事者の話から。そして思想的なものがそのカルチャーに反映されていたのか、それともいなかったのか。もちろん、カルチャーシーンで意図的に当時の現代思想に則してやってみようという動きはなかったと思いますが、後々考えてみると、このような思想的背景があったのではないかと掘り下げていくことができるのでは、と思っています。

 現場と言っても数多くのあらゆるシーンがありますが、意外な組み合わせにしたら、インプロヴィゼーションのような緊迫感あるセッションになるのではないかと思い、本日は米原康正さんと仲正昌樹さんをお呼びしました。そしてお二人を話しを繋ぐ役回りとし菩提寺伸人が加わります。

 

菩提寺 あまりあり得ない組み合わせです。予定調和が全くない。しかも打ち合わせもまったくできない状態で始まります。うまく行けばすごく面白い話になるかもしれない。うまくいかないかもしれない。今日、僕自身は精神医学のことではなく主に音楽関係の話しで繋いでいこうと思います。とりあえずやってみようと思います。

 

――簡単にお2人のご紹介をしておきます。
 大変お若く見えますが、年齢順に米原康正さんからご紹介いたします。
 80年代から大変活躍されている方です。ナイロン100%でバイトして、最初は雑誌の編集者、ライターとしてスタートされ、多岐に渡る交友関係を築かれ、アイドルを作るという方向に向かい、近頃巷の紹介を引用すると「世界に日本を発信し続けるストリートシーンのややこしいジジイ」です(笑)。

 

米原 僕いろんな事の立ち上げにはすごくかかわっているんですけど、メジャーになると興味がなくなるんです。サブカルがメジャーになると、それまでやっていた新しいことを止めて、回すことだけになってくる。しかも広告代理店などが入ってくると、同じことしかやらされないし、曲も同じようなものしか歌わせない。そうなると、もうイヤになる。それはアイドルに限らず、いろいろなものについても同じです。

 

――その後、インスタントカメラ「チェキ」を使った作品を展開され、現在は、写真をコラージュしてペイントを重ねたりという作品を作られています。チェキ・フォトグラファーからさらに一歩を踏み出し、現在、世界的に活動されている方です。
 仲正昌樹さんは金沢大学法学類教授で、専門は法哲学、政治思想史、ドイツ文学。最近では現代思想を読み解く著作を多数執筆されています。教育、執筆活動に加え、近年では横浜トリエンナーレでインスタレーションに参画されたり、2009年に水戸芸術館で開催された展覧会『Beuys in Japan:ボイスがいた8日間』の図録に論考を寄せたりと芸術関連の活動もされています。また、演劇方面においても、劇作家・演出家あごうさとしさんの作品にドラマトゥルギーとして参加されたりしています。最近はNHK『100分で名著』でハンナ・アーレント『全体主義の起源』を分かりやすく読み解かれています。
まず米原さんに、上京された当時の東京のカルチャーシーンから80年代にライターとして活躍されていた頃の現場の話を伺います。

 

米原 僕が東京に出てきたのは1978年です。大学受験を1度失敗し、そのまま家出して東京で生活していたんです。僕の80年代は大学生活とライター活動ですね。ライターとして芸能人と接したりしていました。芸能人と仕事すると親が安心するんですよね(笑)。80年代は遊びでいろんな場所に行ってました。とにかく面白い場所があればそこに行くというのが僕の80年代。そこで何かを残すなんてことは、後半は少し出てきますが、前半は夜の遊びと昼間の遊び、つまり遊びだけ。昼はサーフィンに行き、夜はクラブ。渋谷にあった〈ナイロン100%〉というニューウェーヴのお店でバイトしていたんです。そこで僕と高木完、久保田慎吾、『星くず兄弟の伝説』(85年、監督:手塚眞)の主演の二人ですね、そして戸川純、戸川京子の5人でよくつるんでいました。

 僕は熊本県出身なんですが、当時、各メディアはパンクばかり取り上げていたんです。『週刊朝日』にまでパンクを取り上げたページがあって、「東京はパンクがすごい!」と書いてあった。だから、モテるにはパンクしかない、と思っていたんです。基本的に僕のモチベーションは、女の子にモテること。中高生の70年代に澁澤龍彦さんとか難しい本を読んでいたのも、女の子にモテそうだなと思ったから。今でも覚えていることがあるんです。うちの親戚には社会党の偉い人と生長の家の偉い人がいて、その2人にいろいろなところに連れて行かれたんです。60年代にデモに連れていかれたことがありました。「安保粉砕!」とみんなで叫んでいた。その当時シースルーが流行っていたんですが、シースルーを来た女性が近くを通ったら、「安保粉砕!」の後に「スケスケ賛成!」と言い出したんです。僕は「安保粉砕!」よりも「スケスケ賛成!」の方が好きだった。その辺りから世の中をまともに見るということから距離を置き始めたのかも知れない。
 メディアが言っていることと実際の現場はすごく違っていました。東京にはパンクばっかりだと思って来てみると全然違った。街にはパンクなんてまったくいない。世はサーファー時代で、サブカルをやっている人たちは目立たないしモテない。でもメディアはサーファーについてはほとんど扱っていない。サーファー時代なのに『週刊朝日』にはサーファーが出ない。だけどパンクは出てる。メディアは、変な人とか、ちょっと異形な人たちの方が好きなんでしょうね。

 

菩提寺 僕も70年代後半から80年代に、田舎から東京に出てきて高校時代を過ごしました。米原さんが仰ったように、周囲のほとんどはクリスタル族か陸(おか)サーファー。ニューウェーヴのファンすらかなり少ない。1、2回しか行ったことないと思いますが、ナイロン100%は音楽をカセットテープで流してましたよね。僕はジャーマンロックの〈ファウスト〉の1stをリクエストした記憶があります。

 80年代のサブカルの話になると、今言ったナイロン100%関係や、音楽では自主製作レーベルの〈ナゴムレコード〉、マンガでは青林堂がよく挙げられ、昨今サブカル論などで話題になりますが、当時はそれらに触れている人達ですら少数だったと思います。

 

米原 パンクの連中とも友達でしたけど、当時DCブランドが大人気で、特に〈コム デ ギャルソン〉が人気でしたが、僕が通っていた学習院大学にギャルソンを着て行くと浮くんです。周囲は皆サーファーなので、どう考えてもDCの格好は合わない。でも当時のことを書いた本等を読むと、サーファーに関する記述は薄くて、DCの方が記録には残っている。どうしてかな、と思います。一般的な人たちが好きだったことに関しては写真資料もほとんど見ないですよね。

 

菩提寺 東大表象文化学科で宮沢章夫さんが80年代について行なった講義をまとめた書籍や、その後ゲンロン・カフェで取り上げられたものも、後者の一部を除いてクラブ〈ピテカントロプス・エレクトス〉とか。メジャーのなかのちょっとマイナーという感じですよね。

 

米原 81年に〈玉椿〉という〈ツバキハウス〉の第2店舗目ができ、82年にピテカン、84年に〈マハラジャ〉ができます。ピテカンは、他の店と比べると、何というか…可愛い子がいない。『CUTiE』の読者もそうなんですが。

 

菩提寺 米原さんは『CUTiE』に関わられていたんですよね。

 

米原 仲良しが創刊号の時から関わっています。80年代にナイロン100%の店長だった中村直也が『東京モダンスポット2000』という本を作り、その後に『ラジカル・スケーター・ブック』vol.1,vol.2を作ったんですが、その時のライターが僕と高木完と藤原ヒロシ。その本では、今では当たり前になっているけど、街で本当にカッコいいと思ったヤツを載せたんです。

 

菩提寺 『ビックリハウス』(パルコ出版)という雑誌があり、読者からの投稿を紹介していました。90年代も含めた米原さんの仕事(投稿写真雑誌『アウフォト』等)を見ると、そういう投稿文化にも接点があるのかなと思ったのですがいかがでしょうか。

 

米原 ちょっとカルチャー色の強い人たちの間では、80年代は「パルコ出版カッコいい」という雰囲気はありましたね。

 

菩提寺 確かにパルコ出版からはハイレッドセンターの本も出ていました。香山リカさんが『ポケットは80年代がいっぱい』(バジリコ)で、当時香山さんは松岡正剛さんの『遊』(工作舎)に投稿していて、それで松岡さんに呼ばれたと書いています。大阪で阿木譲さんが作っていたアンダーグラウンド音楽を紹介する『ロック・マガジン』に浅田彰さんがよく投稿していたという話もありました。

 

米原 その頃は僕は野々村文宏と仲良しでよく遊んでいましたね。

 

菩提寺 今、和光大学の先生ですね。当時は前出の阿木さんのヴァニティレコードからパーフェクトマザーのEP( NONOとクレジット)を出したり、トレーランスのメンバーとバンドやっていたり、山崎さん、大里さん他のタコに関係したりもしてましたね。野々村さん、Phewさん、巻上さんはナイロン100%関係者のなかでは僕の聴いていた音楽の領域と近いところにいた方々だと思います。

 

――米原さんは78年に東京に来られ、ナイロン100%でアルバイトをし、そこのネットワークで高木完さんたちと遊び出すようになり、その遊びから雑誌作りの道へ進まれたという経緯ですね。

 

米原 大学生の時は出版社のバイトもやっていたんです。集英社です。80年代初頭、集英社に初の東大生が入社したと騒いでました。ノムラ君といって、『週刊プレイボーイ』に入ったんですが、東大卒だからとみんなにイジメられて(笑)。僕と六本木ナンパ対決とかさせられてた(笑)。80年代前半くらいから東大生が出版社に入り出したんでしょうね。当時は画期的だったような気がします。出版界は早稲田卒がすごく多かった。集英社はわりといろいろな大学の人がいましたけど、講談社は早稲田色。国立大卒を採ることを、出版社はそれほど「よし」としていない時期だったんです。出版社自体が左翼思想が強いところでしたからね。

 

――60年代に熊本で叔父さんにデモに連れて行かれたと先ほど伺いましたが、東京ではそういうシーンはどうでしたか?

 

米原 さっきも言ったように僕は女の子にモテることが大前提だったりするので、60年代のデモも子供心にモテると思っていたんです。「スケスケ賛成!」とか言ってたし。子供は周りの大人の雰囲気を読むでしょ。そうすると「デモに出よう」というのが、「ちょっと女子にモテよう」という匂いがするの。

 

――出版社でバイトされていた時は、周囲に左翼の人が多かったわけですよね。

 

米原 その当時はもう思想的なものが有耶無耶になっていた。情報誌全盛の時代だったんです。象徴的なのは、80年代に宝島がその姿を変えていきました。

 

菩提寺 僕の学生時代も左翼的な空気はまったくなかったですね。僕は明大前にあった〈モダ〜ンミュージック〉というアバンギャルドだらけのレコード屋によく出入りしてました。最初に行ったのはマグマというフランスのロックを買うため、開店してそんなにたってなかった頃だと思います。どマイナーな演歌(西来路ひろみとか)から現代音楽(Ingram Marshallなど)までコーナーがありました。ジャーマンロックやサイケは当たり前のように店の真ん中にコーナーがあった。その頃はイタリアの緩めのプログレも置いてあり高値で取引されてました。OZ DAYSとか裸のラリーズ等のレコードもあったので前の世代のちょっと左翼っぽい人も何人か来ていましたけど、あと法政大の学館の人達とかも。その後、まだ有名でない頃の大竹伸朗さん他のJUKE-19やNORD(ピナコテカレコード)、水玉消防団、Ariel Kalma 他のOsmoseのレコードとかを店長(生悦住さん)がポップとか書いて強く推薦するようになって、、、、とかそんな感じでした。海外から店に来るマニアのなかに混じってレジデンツのメンバー、ダモ鈴木さん、ジョンゾーンさんがいたり、私もここで初めて根本敬さんにお会いしました。インターネットのない時代だったので私にとっては情報得るためにも重要な場でした。当時は生悦住さんが好まないラテン、ソウル、ファンク以外の変な音楽のマニアはほぼすべての領域にわたって出入りしてたんじゃないかな。いわゆる「ワールドミュージック」は置いてなかったけれども民族音楽は置いてあった。そして各々が情報交換して、聴くものもどんどん増えていくという感じ。貸してもらえるライブテープやデモテープのカセットがカウンターの前につまれ、これもどんどん増殖していった。海外では、ある種の黒人音楽は黒人しか聴かないとか、ある種のノイズ、ある種のパンクはそのグループしか聴かないという傾向があるようですが、あの頃、日本の場合、人も音もごっちゃごっちゃに混ざって何でも全部聴いていた。僕はそういうところが面白かったですね。

また80年代当時流行っていたものとしては、オカルトですね。先ほど挙げた『遊』や『エピステーメー』(朝日出版社)も、グルジエフやシュタイナー等々、オカルト的なものを当たり前のように取り上げて、後に大学の先生になるような人たちがそこで書いていました。当時オカルトに対する抵抗はかなり低く、逆にカッコいいものというイメージだった気がします。それがオウム事件以降ぱっと消えましたが。そういうものがオウムに準備する土壌を与えたのかなという気もします。オカルトに関心のある人達も音楽的には結構激しいものを聴いてました。

photo by M Bodaiji

 

米原 僕は、政治的なものはモテないから、極力考えないようにしようと思ってました。

 

菩提寺 ナイロン100%は、ギャルソンを着ている人、そうではなくてもニューウェーヴっぽい人が主流でしたよね。米原さんはその中でサーファーやっていたわけですね。

 

米原 学習院大学では、ニューウェーヴの格好をしているのは僕を含めて2人しかいなったんです。2人で「モテないね」と話していて、女の子に訊いたら「サーファーじゃないからじゃん?」。世の中の空気はサーファーじゃないと若者じゃないくらい、モテないのよ、とにかく。DCブランドブームは確かにあったんだけど、それは世の中、サーファーの人たちとは何も接点がなかった。サーファーたちは六本木に行っていました。だから僕も六本木に行き出すんですが、でも気持ちはパンクやニューウェーヴに残っているから、真っ黒い肌にギャルソン着ていたりして(笑)。

 

菩提寺 真っ黒い肌にギャルソン、あるいはサーファーなのにナイロン100%に居るということは、ある意味異物になりますよね。それをやっていくにはエネルギーが必要になると思いますが。モテるためと仰っていますがそれだけではないような何かが。

 

米原 一つに流れることが僕はずっと嫌いで。ニューウェーヴだからニューウェーヴの格好をしなくてはならないとか、パンクだからパンクの格好という考え方には否定的だった。だからステレオタイプのパンクの人たちはダメで、高木完とかよくつるんでいたヤツらは「どんな格好でもいいよね」という人たちだったから、多分サーファーでもいられたんです。パンクは思想的というか態度で示すものという思いがあったから、格好はモテるタイプのものを着て、気持ちとしては「パンクはやっぱりカッコいいな」ということだったんです。今でも変わらないです。

 

菩提寺 この間、米原さんの別のトークイベント(TFL原宿校「スナックよね」VOL.2)で高木完さんとお話しされてました。高木さんはラップの人だと思っていたけど、多様な音楽を聴かれている方だということを知りました。普通はあまりない組み合わせを話されていた。カウンター的な高木さんの感性で選ばれたんだと思います。面白いなと思いました。米原さんも口では女の子女の子と仰ってますが、それだけではない、「これ違うんじゃない?」というカウンター的なものをお持ちだと思いますが。

 

米原 世の中ではオジサン的な生き方が「よし」とされますよね。つまり大学を出たら会社勤めをする。格好も会社では会社仕様。就職活動ではみんなが同じ格好をするとか、僕らの頃から始まってるんです。そういうこと自体が僕はすごくダメで。バカバカしいなと。モテるモテないで言うと、組織に入ってその組織の言葉でしか語れないとなったら、モテるわけないと思ったんです。親としても最低だし。みたいなことを考えて、絶対そういう人間にはならないようにしようと思ったんです。自分の考えでちゃんと語れるような存在となると、まず就職先がない。就職するとほんとにモテないという気がしてた。
 僕が女子を追っかけているのは、日本のアウトサイダーだと思っているからです。特に十代の女の子たちですね。要するに男の社会に入らずに生きていける唯一の時期だったりするわけです。そういう子たちを追いかけるのはすごく楽しい。その子たちにちゃんと話をしてもらうために、今言ったような世の中が「よし」とする考え方を否定するというところから始まってるんです。外サイドの言葉をちゃんと聞くためには、自分自身も外サイドに身を置いてなければならない。女の子にモテないと子供たちと話ができないという部分もあるんです。

 

菩提寺 メジャーもマイナーもないという話をされていましたが、今の話はその辺りとも関係してくることでしょうか。

 

米原 僕にとってはサーファーとパンクが一緒だったり、すべてがフラット。95年に『egg』(ミリオン出版)という雑誌を作るんですが、当時『GON!』(ミリオン出版)というサブカル誌が、どのくらいの速度でコギャルが浸透するか、1カ月に1県ずつ東北地方を回って調査するという企画をやっていたんです。コギャルがいたらうどんを食べさせるという訳の分からない企画(笑)。そのスピード感はものすごいものがあった。一般の人たちが気付いた頃には女の子たちは変わってる、もうコギャルじゃないんです。世の中がコギャルと言い出した頃には、女の子たちは「ダンサーよ」と言っていた。みんなが「汚ギャル」「ガングロ」とか言っていた時は、メインだった女子高生たちはもうそのシーンにはまったくいなかった。その時間のズレはものすごいものがあります。街で流行っていることがそのまま世の中に出ていないと思って、同時に出すものを作ろうと考えて『egg』を作ったんです。

 

菩提寺 メディアに登場するようになった後に、よくそのシーンのことをインタビューされたようですが、もうその頃には米原さんは既にそのシーンに興味がなかったり、遅れている感じを受けたと話されていましたよね。

 

米原 『egg』をやっている時にびっくりしたことがあるんです。田舎でコギャルみたいな子を見つけていろいろ話を聞いたんです。彼女は〈アンダーカバー〉のTシャツを着て、下はコギャル風のスカート。それで「これ、東京で流行ってますよね」と言う。確かにアンダーカバーも流行っているし、コギャルの短いスカートも流行っているけど、「その組み合わせはまずない」と言ったら、「えー? これが東京じゃないんですか」。その子たちからすると『egg』と『CUTiE』が同じ次元で東京で流行っているものとして受け取っていたんです。僕が東京ではパンクが全盛だと思っていたのと同じように、彼女たちはアンダーカバーも『egg』の格好もすべてフラットにして「東京で流行っているもの」という意識で受け取っている。メディアは、アンダーカバーを着ている子やコギャルを選んで写真に撮る。すると田舎の子たちは、「東京にはアンダーカバー着たコギャルが普通にいるんだ」と思って、さらに派手になっていくという現象が起こる。僕は原宿にずっと住んでいて、かなり感じます。「この原型は東京にないじゃん」というものが多々ある。

 

菩提寺 偶然という事故的なことから逆に新しいものが生まれ、変化が起こるということですね。さっきの高木さんのお話にも関係するかな?

 

米原 そうそう。完に関してもそうだし、その時の彼女は「えー? これ東京じゃないんだ。じゃあ脱いだ方がいいですよね?」と言うから、「いや、絶対そのままの方がいいよ」と僕は言ったんだけど。

 

菩提寺 仲正先生にはポストモダンについてよくご教示頂いています。今の米原さんのお話の偶然から起こる出来事は、上からイデアのような正しいものとして与えられ、それを学習し、その正しいものに合わせていくこととはまったく異なる動きですよね。仮に本人はそのつもりでも。地域で偶発的に起こったずれたものから突然鋭いものが登場し、もう一周して変化が起こるということは、例えばデリダの「散種」、ドゥルーズ=ガタリが『カフカ――マイナー文学のために』(法政大学出版局)で言っている「マイナー」「生成」の概念とも近い現象と言えるでしょうか。

 

仲正 どうでしょう、哲学的に難しい現象ではないと思うけれど。ただ一般論としてこういうことが言えると思います。最先端を追究していくと何が最先端かが分からなくなる。人間はどのように新しいものを認識するのか。よく考えると規準なんてありません。要はその時に何を見つけて来るかです。一般的パターンとしては、古いものかエキゾチックなもののどちらか。何故その両者に関心を持つかと言うと、見たことがないから。しかしこれにも逆接があります。例えば近代ヨーロッパにおける流行は、だいたい19世紀から1人の人間がわりと短期間に体験できるようになったらしいですが、その頃は古代ローマや古代ギリシアの意匠を生活の中に取り入れるのが最先端だった。でも、だんだん飽和していく。そうすると今度はエキゾチックなものを持ってくる。19世紀のジャポニスムやアフリカ趣味等ですね。19世紀後半の前衛芸術はアフリカや日本等からアイデアを得ているものが多いです。しかし、それもだんだん見飽きてくる。そうすると今度は? 新しいものを探すということは、常に循環運動みたいなことを起こしているんです。

流行は地方に行くとどこか歪みますね。私が金沢大学に勤め始めたのが1998年1月、ルーズソックスはそろそろ終わりかと言われていた頃だと思います。金沢市の中心部でバスに乗っていたら、ルーズソックスを穿いている女子高生たちが目に付いた。どうも半年くらい遅れて来るようです。ゴスロリもそうだったかな。見かけたのは半年くらい経ってからだった気がします。私はそれほど女の子のファッションに関心があるわけではないけれど、見ていると強調されている傾向があるようです。例えばゴスロリなら、ゴスロリは真っ黒だという印象を持ったら徹底的に真っ黒。たまに東京に来てゴスロリの子を見かけますが、金沢では「これほどすべて真っ黒なのはないだろう」と思うほど強調していたりする。その辺りのズレは必ず起こってくるものだと思います。ズレているからかえって面白いというものを中心部に持っていくと、そこでまた何かに変化する。そのような現象は常に起こるものなんでしょう。抽象的な一般論としてあると思います。

サブカルについては、ディープなものは詳しくありませんが、知っているのはアニメくらい。最近感じることがあります。昔、「宇宙戦艦ヤマト」や「機動戦士ガンダム」が人気でしたよね。「宇宙戦艦ヤマト」が始まったのは70年代半ばくらいです。私自身は今54歳ですが、おそらく40代半ばくらいの人までは「ヤマト」の話が通じると思う。「ガンダム」はもう少し下の世代でしょうけれど、今の40歳少し上くらいまではファースト・ガンダムの話が多分通じると思う。でも、アニメに関して言うと、全員に通じるものが今はほぼ無くなっているようです。「ドラえもん」や「名探偵コナン」等の幼児向けのものは別にして。大学生に「みんなが見ているアニメはあるか」と訊いてもほぼありません。私の認識では「進撃の巨人」で終わっています。マジメな子もアニメ好きな子も「進撃の巨人」だけは知っていましたが、それ以降皆が見ているものが無くなった。
80年代は、消費社会となり人々の欲望が多様化されていると言われていたわりには、みんな同じことをやっていたように思います。例えば今70代の全共闘のオジサンたちにしても、私は運動について細かいことは知らないので、「みんな同じようなことをやりたがるな」と思っていました。今はほぼ強制的に共通文化が消滅しつつある気がします。

 

米原 そうですね。〈WEGO〉というティーンエイジャーに人気の洋服屋さんがあって、8000円あれば全身コーディネートできるくらいの値段設定で、僕はそのブランドと5年以上一緒に仕事しているんです。地方のWEGOのショップで働いている女の子や男の子で人気がある子が東京に呼ばれて、東京でSNSでの人気を確立させるとブランドも出せたり、メジャーデビューしたり、という、出世物語のようなものがあったんです。そのブランドは常にそのように若者たちの新しいものをリアルタイムで取り入れていたんですが、2016年の後半くらいから「今若者たちに共通のブームはないから何を作っていいか分からなくなってきました」、と言っていました。少し前であればK-POP等のブームがあった。でもそれ以降、「何がブーム?」と訊かれても答えられない状況になっているんです。

 

――今までのお話を伺うと、むしろ80年代の方が多様な個々ではなかったということですよね。当時とんがっていた一部の人たちの間ではギャルソンのファッションが受け容れられていたにも関わらず、やっぱりサーファーじゃないと女子にモテないということで、大衆が一塊に動いていたということでしたね。

 

米原 だからブームが作り易かったんだと思います。「オレたちひょうきん族」(フジテレビ系列)が始まったのが83年でした。ドリフターズの「8時だョ!全員集合」(TBS系列)が終わったのが87年。その間、「どっちを見るか」で当時の中高生たちが二派に分かれたりした。修学旅行の時、どっちを見るかで仲間割れした思い出もあります(笑)。

 

仲正 いろいろな要素があると思いますが、メディアの影響は強いと思います。当時はテレビと雑誌ですね。最も人を引っ張ったのはテレビ。とんがった系の雑誌も決まったものがあったけれど。今はテレビでもBS、CS、ネット番組もある。一様にはなれない。ニコニコ動画等に入ると、その時点で変型が起きたり、いろいろなコンテンツがある。今は人の誘導が非常にしにくくなっていると思います。昔は差異化が起こるのにタイムラグがあったのが、今はメディアに乗っかった時点で差異化が既に始まっている。おそらく90年代、21世紀初頭くらいまでは、まだテレビ文化や一部のとんがった雑誌みたいなものが文化を主導する動きが生きていたけれど、メディアの分散速度がものすごく速くなり、引っ張るのが非常に難しい状況が生まれているのではないかと思います。

cameraworks by Takewaki

 

――80年代について仲正先生にもお話を伺いたいと思います。先ほど米原さんから「スケスケ賛成」の話が出たように、60年代後半は安保闘争やベ平連デモ等、思想的な動きが盛んでした。70年代も政治的で、カルチャーもカウンター的なものと結び付いていたと思います。米原さんが東京に来られた80年代も確かに出版社には左翼が多くいたりしたけれど、左翼活動が際立っていたわけではなかった。80年代に入り、思想的にどのように変化していったのか、カウンター的なものはどう変容していったのか、先生はどのようにお考えでしょうか。

 

仲正 私の経歴的なことを話しておいた方がいいかも知れません。

 私は81年に東京大学に入ってすぐに統一教会の学生グループである原理研究会に入会しました。統一教会には29歳まで計11年半いました。だから当時のサブカルについては、世の中にこういう動きがあると何となくは聞こえてくるけれど、自分たちとはあまり関係のないものだった。住んでいたのは東大駒場寮や、当時渋谷にあった「世界日報」という統一教会系の新聞社の建物だったので東京の中心地にいたけれど、世の中の動きとあまり関係のない生活をしていたんです。

 先ほどオカルトの話が出ましたね。これは一つの傾向だと思いますが、統一教会が大きくなった背景として、恐らく左翼運動が衰退していったこともあるかと思います。左翼的とんがり方が世の中で通用しなくなっていた。ちなみに私が入信した数年前にあたる70年代は、統一教会に入信する人でも学生と普通の主婦等ではかなり傾向が違いました。学生で入信する人たちは、70年代は多くが元左翼だったんです。統計を取ったわけではないですが、安保世代くらいの入信者は民青(日本民主青年同盟)出身が多く、年代が下り新左翼になると中核や反帝(反帝学生評議会連合)の出身者が多かった。私たちの世代になると左翼から移って来るというより、私のような田舎で勉強ばかりしていてあまり世の中のことを知らない感じのタイプが多くなったんです。

 

――統一教会は左翼的なものと戦っているというイメージですが、そこから入って来る人が多かった、と。

 

仲正 世の中からドロップアウトして反社会的な方向に動く人間は一定の数いると思うんです。今は減っているかも知れないけれど。オウム真理教が出てくるのはもう少し後ですが、左翼が衰退してきたので、そういう人たちが左翼ではないところへ動き始めた。左翼自体は70年代終わりくらいから求心力を失い始めます。統一教会の特に原理研究会が左翼とぶつかっていたのは、そのような層がこちらに移動し始めた時代だったから。オウム真理教になるともっと過激になるんですが。
ちなみにオウム真理教事件の際、東大理Ⅲ出身の法皇官房の責任者で麻原彰晃の側近だった、逮捕された石川公一は、完全にオウムの信者になる前、私が話しかけて統一教会の原理研究会に連れて行ったことがあるんです。その時彼と統一教会とオウム真理教の違いについて話をしたんです。その時のことを思い返してみると、統一教会は、教祖がどうかは別にして、どうも左翼的な部分が強かったと思います。あの当時東大や早稲田大学で原理研究会に来ていた人は、発想が左翼と近い人たちが多かった気がします。要するに疎外論的な発想なんです。自分たちは社会から浮いている、あるいは社会の中で生きずらいとか。社会の仕組みにおかしな部分があるから人が疎外されているのだ、という意識を強く持っている層がわりと多かった。オウム真理教に入った石川君と話していた時、彼にはそういう部分があまりないように感じました。私が具体的に知っているのは、つまり私が原理研究会に誘った後にオウム真理教に入信した人は1、2人くらいですが、彼らは最初からヨガのようなものに関心があった。「反社会」というものへの関心がだんだん薄れていき、自分の身体の方に意識が向かって行ったように思います。
米原さんのパンクの話を伺いながら、ふと思ったことがあります。パンクはイメージとしてビジュアル傾向が強いですよね。女の子のファッションで、パンクに似たものを数年前から見るようになったと思うんです。ハロウィンの衣装はパンクっぽくないですか。

 

――魔女っぽい、ゴスですね。不気味な感じ。

 

仲正 あ、いや、不気味だと思わないからまったく違うものなんでしょうね。70年代にあの格好をしていたらパンクだと思ったかもしれない。まったく文脈が違うし、今そういう格好している子もパンクとは違うタイプなので、まったく違うものなんでしょうけれど、見かけは非常に似ている。

 

米原 似てますね。似ているけどそこに思想性はまったくない。ドンキで買ってきた衣装でインスタ映えを狙っているだけです。

 お話を聞いていて思ったんですが、僕が80年代に大学生活を送っていた頃は、大学生は絶対にマジメじゃダメという雰囲気があったんです。「大学に入ってもしようがないじゃん」という空気がテレビからもすごく流れていた。〈とんねるず〉が一流大学生ばかりを集めて、彼らにザリガニだらけのところに飛び込ませて乳首をかませたりとか、大学生イジメの番組が多かった。普通にテレビをそのまま受け取る人間からすれば、「勉強なんかしてもしようがないじゃん」というメッセージを、当時のテレビからすごく受け取っていたと思うんです。

 

菩提寺 正統的なものに対するアンチみたいな空気がありましたね。

 

仲正 そうですね。私は81年に大学に入学したんですが、筑紫哲也の「こちらデスク」(テレビ朝日系列)の番組で、私と同じ年に東大に入った人を30人くらい集めて、「あなたは何故東大に入ったんですか?」と訊いていたんです。みんなポジティヴに答えない。ごつそうな感じの男が「いやあ僕は弱い人間だから、自分を守るために東大に入らざるを得なかったんです」という言い方をしたり。

 

――学力武装ということですか? 東大という権威が鎧になるわけですね。

 

仲正 そう、自分は弱い人間だから東大に入る。学力で武装するしかない。宮台真司さんは、ほんとのエリートは東大みたいなものに固執しないという言い方をしますが、そういう気概がある人は80年前後の東大生にはほぼいなかったと思う。そういう意識を持っていたとすれば理Ⅲのごく一部でしょう。

 

――先生はどうして東大に入られたんですか?

 

仲正 まさにその彼が言った通り。弱い人間で社会性がないので、東大にでも入らないと通用しないと思っていたからです。

 

――高校生の時からそう思っていたんですか?

 

仲正 ずっと思っていました。世間的にもそのような風潮がありましたよ。

 

――社会性がないというのは?

 

仲正 本にも書いたことがありますが、私が高校生の頃、城山三郎の『素直な戦士たち』(新潮社)という小説が新聞で連載されていました。学歴コンプレックスのある女性が、知能指数は高いけれど才能を活かせず、くすぶっているサラリーマンと結婚して知能指数の高い子供を産み、その子を東大に入れて超エリートにするという計画を持っているんです。最初の子は知能指数が高かったけれど118くらい。一年後に産むはずではなかった次男が生まれると、次男の方が高く156くらいまであった。でも長男のエリート教育を始めてしまったので、知能指数の高い次男の方は放っておいた。長男は、最初は成果を挙げていたんだけど、だんだんと限界が来て追い詰められ、最後は自分の弟を殺そうとする。弟の方が体力も知力も上だったので抵抗し、一緒に落ちてしまう。そして2人とも半身不随になるというストーリーです。

 当時はちょうど金属バット殺害事件だとか、東大仏文の先生の孫が祖母を殺した朝倉少年祖母殺害事件、あるいは82年だったか、祖父が東大名誉教授で父親も東大教授、本人は慶応大卒で祖父がものすごいコンプレックスになっていた青年が祖父を「悪魔」と言って殺した斎藤勇東大名誉教授惨殺事件など、その類の事件が多発していたんです。受験地獄で若者の人間性が壊れている、と言われていました。筑紫さんのその番組でも、明らかに新東大生に「自分の人間性が壊れている」と告白させるような意図があったと思います。

 今から考えると、そういうことをやると宗教へ行きがちになりますよと思う。

 

次回に続く

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米原康正×仲正昌樹×菩提寺伸人(菩提寺光世)|2018.02.01

2018.2.1 投稿|