米原康正×仲正昌樹×菩提寺伸人トークイベント第三弾 抜粋

投稿日:2018年03月05日

一部変更、訂正を加え増刷二版目の書店販売を開始いたしました。現在二版目は阿佐ヶ谷ネオ書房で現物在庫があることが確認されています。(2021/7/7更新)

※少量生産本でもあり現在流通が不安定な状況で、大変ご迷惑をおかけし申し訳ありません。

5月中旬発売、早々ご好評頂き、もう既に出版元の在庫も数える程となりました。ありがとうございます。今現在、重版の予定は決まっていませんので、ご興味のある方は下記書店などでお早めにご購入ください。(2021/5/22更新)

現在新宿のブックユニオン、くまざわ書店武蔵小金井北口店、紀伊国屋書店新宿本店、新宿の模索舎、ジュンク堂書店池袋本店、ブックファースト新宿店、神保町の小宮山書店に現物在庫があることが確認されています。 (2021/5/21 更新)

書籍『東京80年代から考えるサブカル』(図書新聞社)が刊行されます。

5月13日〜14日に神保町の小宮山書店、新宿の紀伊國屋書店ブックファーストブックユニオン(ディスクユニオン)等で販売されます。

cameraworks by Takewaki

――画面に出ているのは、〈ジャックス〉のLP『ジャックスの世界』のために、メンバーの早川義夫が1968年6月27日に書いた文章です。

菩提寺

仲正 先ほどの話の関連で言うと、こういう台詞があります。
「プロにならないでほしいとの声をよく聞きます。しかしどこまでが演出なのか分からぬマスコミの世界にジャックスは入っていきたいと思うのです。マスコミが汚い、プロが汚いと言ってアマチュアで押し通すというのは駄目なんです。学校だって家庭だって何処だって汚いんです。汚い世界でありたくないから自分自身がそこに入って行かなければならないと思うのです。でもこれは時間がかかることです。いつも完全燃焼というわけにはいきません」。

 プロとアマだとか、学校と非学校だとか、新左翼的発想では、純粋な世界と汚れた世界をはっきり分け、自分がどちら側にいるのかをはっきりさせようとします。しかし今の文章は、そのような二分法を避け、「汚れた世界に自分は入っていく」と言っています。自分は純粋な世界にずっといられるという感覚をそもそも持たない。そして「時間がかかる」とも言っています。純粋な世界に身を置き、そこで汚い世界に向けて革命を起こすという発想とは根本的に違いますね。

「彼らの心の底に流れる泣きや怒りや願いは歌になって表われますが、外側のジャックスはマスコミに作られていきたいのです。彼らの心の底はないものねだりをするんだろうけれど、彼らの外側が純粋なんてないと思っています。そして僕らは何々を分かるということや、何々を知るということだけが人生でないと思っています。もっと感覚的に歌を愛していきたい。あれは音楽じゃないとかいう発言の底は何々は何、何々は何と頭の中でノートを作っている人なのです。そのように転がろうともしない石になった観念を捨てましょう」。

 「反体制」というものを固定観念的に捉えようとはしない、「何々の本質がここにある」というような発想をそもそも止めてしまおうということですね。

「僕らは一人一人違いを知っている。つき迫ったところで尚も広がっていく一人一人の違いを知っている。偶然集まった4人がそれぞれ自分しか出せない音を出すため我儘で生意気でなければならないと思うのです。そして彼らは誤解されやすい立場にいつもいることを知っている。理屈で考えれば僕ら自身だって「何だこれ」となるから、僕らはあまり語り合わない。一人一人のセンス、感覚だけを、それも部分的でしか信じ合っていない」。

 「部分的にしか信じ合っていない」という箇所などはポストモダン的ですね。ベタな反体制主義であれば、「純粋な世界の中で自分たちだけは分かり合っている」と言ってしまうところでしょう。「本質がある」と思っている人から見れば、表面的にしか繋がっていないように見えるかも知れない。ごく微妙な繋がりなんだけれど、そういうところを大事にしていくという発想です。型にはまることを拒否するあまり、かえって逆に型にはまっていくということを避けるために、いろいろなものを受け容れていく、ということです。受動性みたいなものですよね。

ポストモダン系の議論で、従来の「主体性」に関する議論と異なるのは、突っ張るとかえって自分が捨てようと思っている近代的合理性や型にはまった思考に、逆にはまっていく、という視点です。いわゆる二項対立を完全に避けることはできないけれど、ある程度相対化しようと思ったら、「これが能動的な在り方」「これが受動的」とはっきり分けて考えないようにしよう。「主体性」は大概は能動的だと捉えられますが、そのような能動性の理想像からまず崩していこう。そのためにはある意味、力を抜かないとならない。ただし力を抜いてラジオ体操をすると、かえっておかしくなるように、そこの抜き方が大事になります。簡単そうに見えてなかなか難しいものです。

先ほどの女の子の話に戻しますが「受動的に見える」ということについて。フェミニズム運動史でよく言われることですが、最初期のフェミニズムは「男と同じくらい強くなる」という発想がやたら強いものでした。その反動で「女性らしい主体性」というものが出てきます。すると、「それでは母親や従来の伝統的女性像に囚われるからダメだ」と揺り戻しがくる。そのようなことをずっと繰り返してきました。政治運動化しているフェミニズムは必ずそのどちらかに寄るのですが、ポストモダン系の議論でよく言われるのは、「対抗しようとすると、必ずその対抗しようとしているものに似てくる」ということです。しかも自分の主体性だと思っているものが型にはまっていく。

80年代の主体性は、「反抗する身体」という「意識している主体性」なんです。左翼運動の身体性は意識的に反抗しようとする。だから集団行動のような形になり極度に規律化されていく。カウンターカルチャーへ向かう人は、そのように規律化されない「本当の主体性」を求めていたと思うけれど、その方向に行っても余計に型にはまっていくものなんです。主体性は、追究していくと結局似てくる。

それに対して受動性は、逆説的な意味での主体性の持ち方なのかも知れません。どういう理屈か。例えば、人を殴ることはある意味簡単です。でも殴られるのはキツイ。「どちらをやりたいか」と問われたら普通は殴る方でしょう。あるいは、パフォーマンスにおいて、人の身体を作動的にいじることは楽にできる。でもずっと受け身でいるのは相当キツイ。実はそちらの方が身体的技法としてレベルが高いかも知れない。そう感じたのは、関わっている前衛演劇で「役者をやって欲しい」と言われ、能動的・受動的な動きをやってみたからです。2人のパフォーマーで、「どちらが動かしているのか分からない形の動きをしてくれ」と言われ、やってみて分かったのですが、人間は自分の方から動いてしまうものなんです。理想としてはどちらが動かしているのか分からない状態に持っていきたいのだけれど、単純に手を合わせただけの状態でも、それをずっとやるのはなかなかキツイ。相手主導の動きに耐えられなくなるので自分の楽な方に動かしてしまう。人はやはり受け身の状態でじっとしているのはキツイんです。

――今の話は先ほどのBiSから発展しています。彼女たちは、作り手側の要望に応じ何でもやらされるという受け身であるけれど、実はその立場の方がキツイし、それを受け容れるのには、逆に主体性が必要なのではないか、という話ですね。

仲正

――

仲正 まさにヘーゲルの「主と僕(しもべ)の弁証法」です。マゾ・サドの話に似ているのですが、主が主である為には僕が必要であるという話です。主に対して完全に仕えてくれる僕がいないと主は主でいられない。その意味で主は僕に完全に依存していると言える。主を作り出しているのは実は僕の方であるという見方もできるわけです。マルクスの場合、それがどこかで逆転すると言いますが、実はその状態のままということも考えられるわけです。現代思想では、むしろ僕の状態のままの方が逆説的な意味で主体性を持つ、と考えます。ずっと耐え続けることによって主体を主体にしておいてあげるわけですね。究極のマゾ性みたいで、こちらの方が不気味ですよね。

――米原さんは、80年代からアイドルを作るシーンで活動され、〈おニャン子クラブ〉や〈AKB48〉等に携わってこられました。今のお話は、アイドル側とプロデ

米原 

cameraworks by Takewaki

――最初の方の話にありましたが、仲正先生は我慢して受験勉強していたのか分かりませんが、とにかく受験勉強して東大に入った。そして統一教会の原理研究所に入った。そのきっかけは、押さえつけられていたものが疎外感みたいなものと重なったからでしょうか? 自分の解放のようなことを原理研に求めたのでしょうか?

仲正

仲正 面倒くさいからコミュニケーションしたくなかったんです。しないために東大生になったと言ってもいいくらい。しかも理系にしたのは、文系だとコミュニケーションしないとならないようなイメージがあったから。今は必ずしもそうではなくなってきているけれど。

――その後のことはどう考えられていたんですか? 卒業後は?

仲正

仲正

 ある意味80年代は、東大生をイジメるとか様々なことをやりながら、

に苦手と感じる。80年代は、型にはまらないコミュニケーションの「型」を見つける、というような逆説的なことが続いていたような気がします。

――お話を伺って謎が解けたという気持ちになりました。先生の半生記『Nの肖像』を読むと、統一教会を信じている感じがしないんです。それなのに何故11年間という長い歳月を統一教会に身を置いていたのかな、と疑問でした。コミュニケーションの苦手意識からスタートし、それが東大受験の理由の一つであり、統一教会での11年間はある意味Social Skills Trainingの期間だったのだと、何となく腑に落ちました。

仲正

米原

仲正

米原

仲正

――それは幸せな感じですね。

菩提寺

仲正

米原

仲正 本来は、イジり倒されるのはきついことです。おバカタレントにしても、見ている側は「バカだ」と言われるのが平気な女の子という設定で見ているけれど、考えてみると、それほど頭が良くなかったとしても「お前頭悪いな」とずっと言われていたら相当きついでしょう。彼ら彼女たちは、反発する気持ちをぐっと押さえているんでしょう。それは非常に大変だと思います。普通の女の子だったら、「バカだ」と繰り返されたら何か言い返すでしょう。バカなことを自分のキャラクターにはできません。それをやったら人間関係が成り立たなくなる。

――60年代、70年代には政治的なものと結び付いていた強固な思想があり、80年代に入ってそのような強い主体性や自主性が揺らいできたという感じでしょうか。

仲正 真の主体性を求め続けると必ず崩壊するんです。

――真の主体性を60年代、70年代で求めて過ぎたので、80年代に入り、実は受動的であることが主体的だというモードに変わったということですか?

仲正 受動性も必要だということです。浅田彰さんが言うように、「ノリつつシラけ、シラけつつノル」。シラけていることは実は受動的であり、それが必要なんです。ずっと熱くなっていたら、決まった主体性の型にはまらざるを得ない。人に設定されたのか自分で作ったかは別にして、自分で「これが主体的なことだ」というものを作ってしまったら、ずっとそれをやり続けないとならない。それはだんだんと不自由になります。主体性競争はどこかで限界が来るんです。「喧嘩を売られたら必ず買う」とか、「相手を絶対に論破する」とか、それを主体性と決めたらずっとやり続けないとならない。周りも期待するから。「もう辞めたの」「歳とったの」「気力なくなったの」と言われ、「そんなことはない」とやり続けないとならなくなる。それは下僕の状態です。

それは逆説だ、ということが思想的にはっきりしたわけではないけど、長い時間をかけて世の中が分かってきたんじゃないかな。80年代に登場した情報産業や、宮沢章夫さんの本にもクリエイティヴという話があったけど、クリエイティヴもだんだん型にはまっていく。〇〇クリエイターのような仕事で一度イメージを作り上げると、そこから外れるとクリエイティヴじゃなくなって見える。前と同じだとダメだから何かやるけれど、「こじんまりとしてきた」等と言われたらもうダメ。自分と周囲で作り出した「クリエイティヴ」というステレオタイプに、どんどんはまっていってしまう。逃れるには、ある意味それを気にしなくなるしかないわけです。先ほど読んだ早川義夫の文章のように。主体性を発揮しようとする人は、普通は「もっとやってやる」となる。昔の芸能人は「それがカッコいいのだ」という型が非常に強かったですよね。

――実際米原さんは芸能界でもクリエイティヴの立場で携わってきました。作り出すことはどのようなものだったのですか。

米原

仲正 米原 逆に炎上する(笑)。

仲正

菩提寺 会場からも何か意見があれば?

仲正

菩提寺 最近の話題ですが、ある犯罪を犯した人がAという名前だったために、まったく関係のないA工務店がすごく攻撃されました。当人がいくら否定しても電話をかけて来た人が大勢いて結局廃業に追い込まれたとか。「歪んだ正義感」と言われていますが、そういう現象が見られますね。

米原 「正義」ってイジメになりやすい。でもそれは正義感ではないですよね。

仲正

米原 不倫騒動もそうですね。

菩提寺

仲正

菩提寺 偽善やきれいごとを欲する人たちをかなり刺激してしまったと思うのですが。

仲正

菩提寺 クラシック音楽であったことが大きいかと思います。アウラを感じて、ありがたく聴いていたけれど裏切られたと。

仲正 叩いていた人は元々クラシックのファンではないと思いますよ。雰囲気でありがたいと思って買っていた人が叩いている人に影響されて買わなくなったという話だと思います。

菩提寺

――雰囲気ですよね。

仲正

米原 それは秋元康さんの作戦でもあります。炎上させて人気を得ることを意識的にやっているところがありますね。

仲正 昔は、わざとだと分かっているけど、その「可愛いという設定」は守ろうとしました。今は作り手の方がわざと炎上に誘導していますね。

米原 やってますね。

菩提寺

米原 きゃりーが所属する「アソビシステム」という事務所は、「読者モデル」というモデルでもないし読者でもないものの定義を全面に押し出したところなんです。「こういう仕事をしてください、と言われたくない」「でもモデルはしたい」という相反する意識を持つ子たちを初めて事務所として扱いました。その子たちはみんな、時間には来ないわ、プロとしての意識がない。も逆にプロとしての意識のなさが多くのファンを作るんです。

菩提寺

米原

菩提寺

米原 最近は、「前髪」というテーマの作品シリーズを発表しています。メンヘラの子たちと話していると、必ず前髪で目を隠すんです。「どうしたの?」「べつに」。分かってきたんですが自分では「隠れた」という気持ちになるようです。

仲正 可愛く見せたいのに口を隠すとか眼帯を付けるとか、ハロウィン風の黒い化粧をするとか、明らかに反することをやってますね。

―― 「前髪」はそういうものからの展開でしょうか?

米原 先ほどの主体性の話に関連しますが、「べつに」じゃなくて「あなたたちを見たくないから」と言うと、主体性が一瞬にして現れます。「前髪を伸ばした理由をちゃんと言ってみよう」という企図なんです。だから「fucking wall」とか「あんたを見たくない」というパンクっぽいタイトルを必ず付けるようにしています。先ほどの話じゃないですが、ちょっとリーダーになったつもりで、「そういう女の子たちが増えるといいな」というのが今の僕の夢なんです。

cameraworks by Takewaki

菩提寺 暗黒大陸じゃがたらにも「あんた気にくわない」という一言から始まる曲がありますね。

米原 ほんとに在り方をちょっと変えるだけ、一言そこに付け加えるだけで、MがSに変わります。

菩提寺 両義性がある。ポスト・モダン的ですね。気が弱いのか強いのか分からない。

仲正 この写真の子は姿勢としては隠しにかかっているけど、どう見てもこういう風に見せようとしているとしか思えない。姿勢と着ているものが真逆。真ん中の女の子も小顔に見せようとしていると考えるのが普通だけど、顔を隠している。この子は太腿を見せたいんだろうけど、正面じゃなく横を向いていて、グラマーに見せようという時の角度に曲げてはいない。一見大胆そうで隠している。どっちなんだろう、と思わせますね。

――逃げているのか、攻撃しているのか?

仲正

米原

仲正

米原 怖いですね。

仲正 変な喩えですが犬と一緒で、イジりすぎると攻撃する。吠えられないギリギリのところまでイジってやろうという感じに引っ張られる。

――いい気になっていると噛みつかれるという感じでしょうか。

仲正

米原

仲正

菩提寺

仲正 大人を人生の正しい処置方やコミュニケーションのあり方を分っている人間と想定するのはもう無理があるけれど、ただ違いがあるとすれば、長いこと生きているので少なくとも生き残り方だけは知っているということだと思います。

米原

――その半年で彼ら彼女たちは何を知るのでしょうか。

仲正

菩提寺

仲正 経済情勢もあるけれど、諦めが非常に早いです。昔であれば、エントリーシートを書くことだけで相当精神的に追い詰められたかも知れない。今の子は当たり前に受け止めている。

菩提寺

仲正

菩提寺 熟慮する時間がない、与えない。猶予を与えず選択させる、させられる。さらに考えた上で諦めるということをする時間すら与えられないということでしょうか。

仲正

米原

菩提寺

米原 僕なんて未だにモラトリアム期間です(笑)。

仲正

米原 サンプリングですね。昔であれば80年代特集、90年代特集ということにしかならないけど、今の子たちはいろいろなところから美味しいものを持ってくる。それでセンスをうまく出したヤツがオシャレと言われています。まさにそういうことだと思うんです。音楽でも昔ならパンクしか聴かないという人も多かったけど、今の子たちはサンプリングのためにいろいろものを聴いて、「ここだけもらっておこう」としたりする。より編集能力が必要になっていますね。

仲正

――編集作業をしている過程で偶発的に出てくるものもある。組み合わせによってまったく別のものが出てくる場合もあります。

米原 米原

菩提寺 まさにビル・ラズウェルも同じことを言ってました。仲正先生が仰ったように「どう組み合わせていくか」ですね。

米原

――80年代はそうなるための大事な時期だったということですね。

一同 そんな大雑把でいいんですか(笑)? 長時間ありがとうございました。

yonehara yasumasa

米原康正×仲正昌樹×菩提寺伸人(菩提寺光世)|2018.03.05

2018.3.5 投稿|