Erbarme Dich 「マタイ受難曲」

投稿日:2013年08月15日

パゾリーニ「奇跡の丘(原題 マタイの福音書)」からベルイマン「冬の光(原題 聖餐式の参加者たち)」、仲正昌樹「Nの肖像」を巡り

cameraworks by Takewaki   

 

 

子供の頃、未だ暗い夜明け前、月の初日の「おついたち」には私は母に連れられお参りをした。故郷は、城を中心に外堀と内堀に入り組んで区画された城下町である。市街の周囲の丘や山には城を守るように寺が配置されている。天守閣を頂く小山のふもとには、何体も並ぶ地蔵があった。地蔵を守る堂や住職はなかったように記憶している。お地蔵さんと呼ばれていたそこは、地域の人々に世話をされ、守られていた。母が「おついたち」と呼ぶそれは、月の初日の地蔵参りをさす言葉で、若い母親から老女といった年配の多くの、主に女たちが集まって来ていた。
もうもうとした香が煙ぶるなか、何体も続く地蔵の列はろうそくの小さな炎にぼんやりと照らされ、その前では一心に祈る女がしゃがんでいた。彼が誰かも識別できない夜明け前の暗がりで、言葉を交わす人はいない。そこに集まる人々を繋ぐものがあるとすれば、おそらく親よりも先に亡くなってしまった身近な者を悼む思いだった。私はろうそくの灯りを辿って、奥へ、奥へと進んでゆく。彼岸と此岸の隔たりもないようなその空間は、天に神はなく、地の底に地獄はなく、小さく点在する炎と立ち籠める煙りに閉ざされ守られている。小さな信心が集まったお地蔵さんは、宗教からは遠く離れた場所だった。そのような場所は、日が昇り始めると光と空気に吸収され、静かに消えてゆく。

 

数年前「Nの肖像」を読んだことがきっかけで、仲正昌樹氏のドイツ現代思想の一連の講義に出掛けた。個人的には出来る限り人との関わりをやめようと思いはじめ数年たった頃だった。SeinとDaseinの違いについての私の質問に回答下さったことへのお返しに、映画2作のディスクを渡した。1枚はタルコフスキー「サクリファイス」、そして1枚がベルイマン「冬の光(原題 聖餐式の参加者たち)」だった。
「Nの肖像」のなかで、宗教とは何かを抽象的に定義すると、形而上学的な信念を中心とした「精神的な絆」を求める人たちの共同体であると著者は言う。「共同体 Community」と語根を同じにする「(Holy) Communion((聖なる)交わり)」を意味するキリスト教の聖餐式は、イエスの血と肉を象徴するぶどう酒とパンを信者がみんなで分かち合い、キリストを中心とする「共同体」であることを確認する儀式であると。
パゾリーニ「奇跡の丘(原題 マタイの福音書)」では、そこに登場する全てのものが予言に沿って、それを成就するために淡々と役割をこなして行くかのように描かれる。イエスは逮捕され、磔刑を予想したうえでエルサレムに赴く。予言が成就されるまで計画に気づかなかった者、それはペテロであり、ユダである。最後の晩餐を前にペテロはイエスから「お前は私を知らないと、鶏が鳴く前に三度言うであろう」と未来を告げられる。ユダは晩餐で裏切りを予告される。そしてパンを取り、裂き弟子たちに与えて言う、「食べなさい。これは私の身体だ」。杯を取り「飲みなさい。これは私の新しい契約の血だ」と。イエスがこの契約を弟子と交わす場面で、彼は既にこの弟子たちが自分を見捨てるであろうことを知っている。裏切りが予め定められた、交わり合うことがないこの契約「最後の晩餐」が魂の共同体の最初の聖餐式である。
イエスが捕らえられた後、その弟子たちは追われ、追究されたペテロはイエスのことを「そんな人は知らない」と三度繰り返す。三度目の回答を終えたところで鶏が鳴き、鶏の鳴き声で予言の通りになったことに気づいたペテロは罪への悔悛に激しく泣き出す。

 

− Erbarme Dich, mein Gott. 神よ、憐れんで下さい −

 

ユダは予定通り裏切った後、罪の大きさに堪えきれず自殺する。

 

ベルイマン「冬の光(原題 聖餐式の参加者たち)」では、背中が大きく曲がり身体に障害を持つ教会の使用人の次のような問いに牧師は答えることができない。
イエスが、磔刑でもがき苦しみ血の涙を流したのは、なぜだろうか。キリストともあろう方が、身体の痛みに堪えかねてそこまで苦しむとは思い難い。身体の苦しみは、使用人のこんな私ですら耐えているのだから。では、なぜか。イエスは最後の最後に神を信じることが出来なかった。それこそが、耐え難い苦しみだったのではなかろうか。

 

− 神よ、神よ、なぜあなたは私を見捨てたのか −

 

そして仲正昌樹「Nの肖像」。信じたい、信じることができればそこに魂の静寂が訪れるであろう、という願いと同時に、信じることを自らが拒否してしまう青年の姿があらわれる。時を経過し、場所を変えながら、それは11年余におよび繰り返され、遂に信じない自分と対峙する。そして彼はCommunityを離れる。こう読むのは私だけだろうか。しかし、信じることができずにあったこの二つの、ひとつはHolly Communionに繋がりを託し、ひとつはCommunityを離れたそれぞれの精神の痕跡に、悔悛でなく、ある意味救いを読むのは私だけではないだろう。

 

未来から現在を通り抜け過去へと向かう時間のなかで、過去から未来へと順を追う現在にいる者は、未来に従う物語を歩くのだろうか。高橋悠治の「パーセル最後の曲集」に触発され、私はこれを書いた。未来に予定されていた音が過去に聴こえていたり、過去にあるはずのものが今聴こえる。予定を裏切りバラバラに解体された音は、決して解体されない曲となって、決められた時間の方向に同じ速度を保ち回転しているレコード盤から流れている。
あの日のろうそくの炎は誰かに灯され、「冬の光」の最終場面で教会に射した凍り付いた冬の陽光は撮影ディレクターのニクヴィストが作った。どちらも神や自然から与えられたものではなく、人の手によって作り出された人工のものであるが、私のなかでは同じ光である。

 

 

                   

マタイ受難曲 生きた神を裏切り見捨てた人間の
ロゴスとなった神からの耐え難い距離
高橋悠治「音の静寂 静寂の音」より

 
 
 

菩提寺光世|2013.08.15

2013.8.15 投稿|