いたるところに神のしるしがある
ベルイマン「野いちご」より
少なくとも59年「処女の泉」までのベルイマンの映画作品のなかで、自然現象である水に、人は神のしるしを見るだろう。降り注ぐ雨、湧きいずる泉、陽光を反射する水面に、人は人を越えたところにある恵みを感じるだろう。しかし60年代に入ると、水は不気味な側面を暗示する。
「鏡のなかにある如く」で海に囲まれる島で倒錯した性を交わす姉と弟は海原が社会から、「冬の光」で死を選んだ男の死体が横たわる河岸では凄まじい勢いの水流が世界(神)から、彼らを隔て断絶してしまうものとして表現される。S・ニクヴィストを撮影スタッフとして迎えた「処女の泉」以降のベルイマン作品に、人の表情のクローズアップが際立ち、重要な要素となっていることに異論を唱えるものは少ないだろう。水の描写も同様に、対立や断絶を表現しさらに、制することが出来ない衝動、底なしの欲情を表現していったようにみえる。渦巻く水面に、はかり知れぬ深みからうねる波に、善や悪の見境なく呑み込み沈没させる、抗することができないようなエネルギーの源流を認める。
津島佑子作品にも同様に水が、重要なモチーフとして物語りのなかに姿を現す。それは、性を絡めとり、生と死を呑み込み沈める闇として出現する。「ヤマネコ・ドーム」は、多くの「私」で構成される物語りである。語り手である複数の「私」の声は独白として、または他の「私」との対話となって、時に物語りが始まる過去に遡り、時に未だ語られぬ未来に怯え、ゆっくりと「私」から、違う「私」へと複数の一人称で語られ移行する。語り手である「私」を繋ぐのは、血の繋がりを持たない家族で、米兵と日本人女性の間で事故のように、もしくは事件の結果として誕生した、いずれも孤児になった人々の小さな集団である。物語りは、その周囲の人々も巻き込み、彼らのひとつひとつの小さな物語りを現出させることになった大きな物語り(歴史)の大きな影をあぶり出す。
書籍「ヤマネコ・ドーム」は、その装丁から物語りが始まっている。厖大な放射能汚染物質を閉じ込めた巨大ドームの写真からなる表紙一部が切り抜かれ、中から漆黒のハードカバーに記されたタイトルが見えている。
冒頭は、揺らされ、震える木の描写からだ。放射能の影響からか異常発生したコガネムシが1本の木に鈴なりに群がり、いっせいに葉をむしばみ不気味な音を立てうごめいている。これからの物語りの行方を示唆する始まりだった。
孤児院で暮らすひとりの少女が池で溺死する。うつ伏せで浮かび上がった少女のスカートのオレンジ色が水面にひろがる。
殺人か事故か不明なままに、その場に居合わせた近所の発達障碍らしき男子児童、施設の子供たちの全ての者に、少女の死は少女のスカートの色、オレンジ色の記憶として刻まれる。この少女の死に息子の関与を確信している発達障碍児の母は、お金も教育も十分ではない貧しさの中で、かまぼこ板の位牌を前に厭がる息子をむりやり座らせ、繰る日も繰る日も祈り続けた。死んだ少女を弔うために息子の残りの人生はあるのだと。息子の人生がゆるされない世界なら早く世界が終わって欲しいと念じ、一心に拝む。母は息子を社会の法には委ねず、母が母の愛と信じるところの(神、仏の)法に委ねることで、息子と自分の存在さえその祈りのなかで正当とし、社会から隠蔽する。隠蔽することによってオレンジ色に象徴される事件は1回限りで終わることはなかった。
オレンジ色の殺人は再発する。
記憶を共にするものは、成人し老年の域に入る。しかし過去の忌まわしい記憶を封じ込め、なかったことにしようと逃れようとすればする程、再発というかたちで追いかけられる。その記憶は過去のものに留まらず、予言者によって未来に起こる事実として現在に示唆され、語り手から読み手に不安は煽られる。
未来の中に終わらない過去が封じ込められている。
今年に入って間もなく東京が雪に閉ざされる日があった。朝からの雪はその夕刻には記録的な降雪となり、路肩の積雪は50㎝はあっただろうか。私たちの事務所からの数名は津島佑子氏が催して下さった竣工を祝う集いに招かれご自宅に伺った。来日中の中央アジアからの客人はあいにくの雪に阻まれ訪問にならなかった。それでもごく限られた人数ではあったけれども、複数の国籍の人々からなる集いだった。立場が違う人々が集まるこの小さな祝いの席で、政治的な話は憚れると言葉を止めた私に、津島氏は、遠慮は無用と話を続けるよう促した。
次に会ったのは、8月の終わり。当社と縁が深かった佐多稲子没後15周年の記念講演のことで、この日は猛烈な暑さだった。講師であった彼女は佐多稲子を、書き、発表するということである意味愚直に目前の現実に応えた人、と語った。冬も夏も同質の内容だった。
黙っていてはいけない、と。
オレンジ色の広島、長崎、福島は、過去のしるしとして封じ込められたのか。
先週、英国の友人から知らせがあった。もう長いこと会ってはいない知人がこの世を去った知らせだった。ニュースレターの死亡欄で偶然見かけた名前。人生を終えるには早すぎる年齢だった彼は、命をかけて原発事故収束を祈念し心不全になったという。仏門を修し、その後知識を深める以上に信仰を深めるために渡欧し神学を修めた彼の祈りは、布教とは遠く宗教の枠を越えたところににあったのだろう。
私はその知らせに、ヤマネコ・ドームに引き込まれたような、目覚めながら悪夢を見ているような気分に閉ざされた。現在に突然過去の情景が甦り、漠然とした不安の未来が侵入し、ひとかたまりとなって今ある私を閉じ込める。
物語りのなかで表現された「煮こごり」のなかに私もいる。
そよぐ風になびく木々の葉、清らかなせせらぎ、過去の情景を甦らせる「野いちご」主人公である老人は、いたるところに神のしるしを見つける。
神がその姿に似せて創造したのが人間であるのなら、オレンジ色のしるしも神の御業(しるし)なのだろうか。
彼は最後にどのようなしるしをこの世界に見たのだろうか。
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菩提寺光世|2013.10.09